2019年11月3日・・・卓越した神である救い主
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。ヘブル1:3(1-11)ヘブル人への手紙の全体を振り返り、まとめとしましょう。
《何ものにもまさるキリスト(1:1-4)》
聖書は、御子は単なる神に用いられた人間ではなく、(父なる)神の御子=子なる神であると告げています。御子は創造者である神、御使いに遥かに優るお方です(コロサイ1:2,15-17)。また、キリストは永遠の大祭司です。私たちを救うために一時低くなり苦しんだ事は、私たちを完全に同情するためでした。キリストが私たちと共に歩み、苦しまれたのを知っているので、私たちは、この方が私たちを判って下さると信じるとができます(4:14-16)。キリストの十字架の犠牲は、すべての罪を聖めます。キリストは天の幕屋をきよめて、人が神に近付く道を開かれたのです。そして死者の中からよみがえられたキリストは今も生きていて、私たちのためにとりなしておられます(1ヨハネ1:7,2:2)。《信仰こそが神を知り、神の祝福にあずかる道である(11:1-2,6)》
信仰は、望んでいることを保証し、見えないものを確信させます。神に称賛されるのも、神の啓示を知るのも、神に喜ばれるのも信仰によってです。また、信仰は望んでいることを保証します。信仰を通して、神は私たちを救い、義とし、ご自身の子どもとして受け入れ下さいます。そしてイエスの名によって祈る事を通し、神はすべての願いを聞いて与えて下さり、私たちの思いを超えて豊かに与えて下さいます。人は信仰によって、神に誉められ人々から認められる。その証拠として記者は、旧約時代の多くの信仰者たち(アベル、エノク、ノア、アブラハム、......)を挙げています。聖徒たちは、信仰によってそれぞれ神に喜ばれる行ないを成しました。彼らは、地上で信仰を証ししましたが、みな地上で報いを得たわけではありません。しかし主は、全ての信仰者に、神は天の故郷を用意されました。《私たちも、信仰の道を忍耐をもって走り抜こう(12:1-2)》
多くの証人に囲まれていますから、私たちも忍耐をもって走り続けましょう(12:1)。大切なのはキリストから目を離さないことです(12:2)。私たちの救いと希望は、この方に掛かっています。キリストの十字架は、神の愛、罪の赦し、永遠のいのちの証拠です。キリストは、主が共にいて理解して下さる事の証拠、苦難の先にある勝利の希望の道しるべ、祈りが聞かれる約束と確信の土台、です。どんな困難や権威も、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません(ローマ88:35-39)。私たちは救いの内に守られ、豊かに報いられます(ヨハ6:37,39,2コリ4:17,1コリ10:13)。試練は神が子として扱っておられるしるしですから、気落ちせずに、主に従って歩みましょう(12:7-9)。私たちは、神のさばきを免れ、天国の栄光に近付いています(12:22-24)。だから主の喜ばれる良いわざに励むのです。「恵みがあなたがたすべてとともにありますように。」(13:25)。