2019年12月1日・・・十字架は救いへの神の力
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。1コリント1:24(17-25)
パウロは、十字架が空しくならないようまっすぐ伝える、十字架のことばは、救われる者にとって神の力だと証ししました。どうして、そう言えるのでしょうか。
《十字架の使信は人を救う福音の核心です(17-18)》
キリストは聖書の預言を成就し(マタイ5:17)、人類の罪の贖いの代価として御自分のいのちを与えるために来られました(マタイ20:28)。キリストはこの命令を父なる神から受け、そしてその時を待ち望んでいました(ヨハネ10:18,17:1)。キリストの十字架を信じるならば救われます(15:1-5)。この十字架のメッセージを伝える事が、主が教会に与えられた使命です。この十字架の福音を信じるかどうかで、救いが決まります(マルコ16:15-16)。
《十字架は神の偉大なみわざです(19-21)》
キリストを信じない者は、キリストが権力に負けて死刑にされた残念な人だと考えます。また救い主はローマの圧政を打ち砕いてイスラエルを解放する王だと考えていましたから、ローマに捕えられてみじめな姿をさらす方を拒みました。聖書の預言の通りでした(イザヤ53:1-3)。しかし十字架の死こそ、神の救いのみわざだったのです。神はご自身の御子を死に渡されるほどに、罪人の私たちを愛されました(ヨハネ3:16,ローマ5:8)。この死を通して、罪の贖いを成し遂げ、罪と死を滅ぼしました(コロサイ2:15)。キリストが約束の通りに三日・・・目に復活された事が、その証拠です。復活によって信仰の確信をいただいた弟子たちによって福音が宣べ伝えられ、教会は全世界に拡がっています。キリストは今も生きて、信じる者を救い、罪の赦しと平安をもって、クリスチャン一人一人に朽ちない希望を与えておられます。
《十字架は人の知恵や力では不可能な救いをもたらします(22-25)》
今日・・・も、人びとは、しるしと知恵を要求し、それが与えられれば信じるのだがと言って信じようとしていません。また、十字架こそ神が下さった最大の証拠なのに、しるし(信じるに足る証拠)を要求し、信じようとしません。知恵(自分を成功に導く知識や能力)を求めますが、真の知恵である、神を恐れ従う信仰を拒んでいます。しかし、十字架の福音は、私たちにまず、神に立ち返ってキリストの十字架の身代りを信じることを要求します。それは世の人には愚かと見えますが、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。神は何の非もないお方ですが、罪を犯し自業自得の状態にある人類を救うために、私たちがまだ敵対している時に、ご自身で自ら身代りに犠牲となられました。救うために他の道はなかったからです。遥かに高い所におられる神が、神のあり方を放棄して自ら仕える者の姿を取り、私たちと共に歩み仕えて下さいました。そうしなければ人類が神を見ることができなかったからです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(25)のです。