2019年12月8日・・・キリストこそ我が知恵、誇り
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
1コリント1:30(26-31)
パウロは教会の混乱状況に対処するために「何を誇りとすべきか」を問い直しました。あなたの誇りとするもの、一番大切にしているものは何でしょうか。聖書から、何を誇りとすべきかを確かめましょう。
《キリストのもとの導かれたのは普通の人たちでした(26)》
イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人」を招かれました(マタイ11:28)主はすべての人がご自身のもとに来ることを願っておられます。しかし人間の誇りや欲望による煩いが邪魔をして、知識・富や・力を持っている人たちは、神のあわれみや助けを必要としません。少数の例外はありましたが、イエス様に魅かれても、富や地位を失うのを恐れて従いませんでした。信仰を邪魔するプライドは、高い地位や能力の人に限らず、すべての人が持っています。コリントの人々は、普通の人たちでしたが、自分のプライドから争っていました。自分はそこそこだから、キリストの救いは必要ないと思われる方もおられるでしょう。地上ではそうかも知れません。しかし終りの火にすべてを明らかにして審かれる神の前にはどうでしょうか(黙.3:17)。
《神は世にあって弱い者を救いに選ばれました(27-29)》
神は世にあって愚かな者、弱い者、足りない者、見下されている者、無に等しい者を選ばれました。一般に教会に自分から来られる方は、人生に悩みや困難をかかえている方々です。神がその人を選ばれて、問題に直面するように導かれたからでもあります。神はこうして、自分の努力やプライドではどうにもできない事に気付かせ、救いを求めるように導かれたのです。それは人間の知恵・力・自負に頼ったのは愚かな間違いであった、と恥じ入らせるため、人間の誇りが神の前に無に等しいことを認めさせるためです。パウロもそれに気付かされて主を信じました(ピリピ3:2-9)。キリストのすばらしさを知る時、人の誇りは取るに足りないどころか「損失」であることを痛感します。人間の誇りはキリストに頼る信仰の邪魔となって、恵みを受けさせなくするからです。神の恵みは水のように、低い所に流れてきます。
《大切な事は一つ、キリストにあることを誇ることです(30-31)》
人間的な事を一切無価値とするキリストを知ることはすばらしいのです。キリストは神からの知恵、これこそ良い人生を歩ませる力です。キリストは私の「義」です。神の御子の力・性質・特権が与えられます。キリストは私の「聖」です。キリストを信じた時、私は神と結びつき、神の聖い性質が身を結ぶよう造り変えられました。キリストは私の「贖い」(救い)です。贖いとは、犠牲を払って負債や刑罰から解放することです。私が負うべき罪の負債をキリストが十字架で負って下さり、神は信じた私を赦されました。誇るとしたら、私のために十字架にかかられた主キリストだけです。キリストを信じてキリストだけを誇りとする時、人間的な誇りから来る争いから解放され、平和を築く事ができます。キリストの平和がクリスチャン同士にもたらされ、キリストを信じていない方々にも広がります。