2019年12月15日・・・神は私たちと共におられる
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
マタイ1:23(18-25)
聖書はキリストの誕生の出来事が、上記の預言(イザヤ7:14)の通りであると記します。このことばを中心に、改めてクリスマスの意味を確かめましょう。
《インマヌエルの預言・・・神が共におられる事のしるしと恐れ》
冒頭の聖句は、キリストの誕生の700年程前の預言です。当時イスラエルは、神から離れ、神が判らなくなっていました。国が混乱し隣国におびやかされる中で王は、神はどうして助けてくれないのかと嘆いていました。その時、預言者イザヤは、やがて起こる奇蹟について告げました。「インマヌエル」、神が私たちと共におられる。そのしるしは処女が身ごもることである、と。これを聞いた王は恐れて、もう文句は言いません、神がすぐそばに来られたら恐しくて耐えられない、と答えました。神が味方ならばうれしいですが、聖い神が自分の心や行ないを見抜いてさばいたら、私たちも恐しくて、近付かないでほしいと懇願するでしょう。すべてを知っておられる聖い神が、側に来て審くのに、私たちは耐えられません。
《神の御子は、神を恐れる私たちを安心させて下さる》
恐るべき創造者である神の御子が、処女の胎に宿り、人が守ってあげなければならない幼子となって生まれました。イエスと名付けられた幼子は、貧しい大工の息子として成長し、愛される存在だったが、誰も恐れることはありませんでした。そして30歳の時から、救い主として、神の教えを判りやすく正しく伝えるので、みな驚きました。大勢が聞きに押し寄せ、苦しんでいる人々を救いました。また自身のことを伝えるための弟子を訓練しました。この方の一番大切な使命は、人類の罪のために十字架で死んで、三日・・・目によみがえることでした(ヨハネ1:29,マタイ16:21,20:28)。すべての人は、神が憎まれる「自己中心、神に信頼しない不信仰、神に逆らう不従順」の内に歩んでいます。本来この罪の罰は私たちが受けるべきものです。しかし神の御子は、私たちの罪を負って、身代りに十字架で死なれました。そして約束の通りに三日目に死者の中からよみがえりました。ご自身が証しした通り、救い主であることを証明するため、また、生きて私たちを救い、守るためです。神の御子は私たちをさばくためではなく、赦して救うために来られました。ですから恐れずに近付くことができるのです。
《神の御子は、私たちの味方としていつも共におられる》
イエス・キリストを信じる人は、だれでも、罪を赦されて神に近付くことができます。キリストは信じる者の内に住んで、ご自身のいのちで私たちをきよめ、神と共に歩む者に変えて下さいます。これが「永遠のいのち」です(ヨハネ11:25、ローマ8:11)。キリストを信じる人は、神が味方となっていつも共におられます。こうして救い主イエス様がもたらす「インマヌエル」は、恐ろしいものでなく、慕わしい幸いです(イザヤ41:10)。この方を信じ受け入れる時に、本当のクリスマス、インマヌエルが実現するのです。