2019年1月5日・・・キリストの栄光のための生涯
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。ピリピ1:20私たちが新年何をめざすのか、パウロが模範として証しした彼の生き方を通して、主のみ心にかなった願いをもって歩み出しましょう。
《第一に、キリストを誇って歩むことです》
獄中にあっても感謝と喜びに満たされていたパウロは、ここで自身の願いを証ししました。まず、どんな場合にも恥じずに大胆にキリストを語り続けることです。彼はユダヤ人からは「疫病」、異邦人からは「頭がおかしくなっている」と言われました(使徒24:5,26:24)。しかし罵られても、キリストのために辱められる事を誇りとしていました。迫害の中でも主に守られて、彼は大胆にキリストを宣べ伝え続けました(使徒9:28,19:8,28:31,1テサロニケ2:2)。それは、キリストが自分のために払われた愛の犠牲を知っていたからです。キリストは私たちを愛し、辱めをものともせず私たちのために仕え、福音を語り、喜びをもって十字架にかかって下さいました。私たちのために犠牲を払うことを誇りとされました。私たちもパウロと同じように、キリストを誇りとしキリストを証ししましょう。《それは生も死も超越した歩みです》
「生きるにしても死ぬにしても」とあるように、パウロは生と死の両方を意識しながら一つの目標をめざして歩んでいました。こうして彼はどんな時にも、健康な時にも病の時にも、若い時でも年老いても、順調の時も困難の時でも、一貫した歩みができました。キリストのために、キリストに従って歩む時、私たちは道に迷うことはありません。キリストは生きる時も死ぬ時にも、いつも共におられ、私たちを守り、導いて下さるからです(詩篇23:4,ヨハネ6:37,14:6他)。パウロは死を目前にしてもこの確信を保っていました(2テモ4:6-8)。キリストは死者をよみがえらせ、永遠の報いを与えて下います。地上の困難は後に来る永遠の時に比べれば取るに足りないのです(2コリント4:17)。《唯一の目標はキリストがあがめられることです》
これこそ、人間が作られた目的です。主はすべてのものをご自身の栄光のために創造されました(イザヤ43:7)。どのようにしてキリストが崇められるでしょうか。(1)自分自身がキリストを信じ、罪から救われることです。神に反逆し神を信じない事こそ、神の栄光のために創造された人間が神を貶めている罪です。神は御子キリストを遣わし十字架の贖いを成し遂げました。キリストを拒むことは神の栄光を否定する事、キリストを信じる事は神のすばらしさを認めることです。(2)誰かが救われるために労することです。パウロは主のみこころに従って、福音を伝え、人々が何とか一人でも救われるために労してきました(1コリント9:22)。(3)教会に築かれるまた教会を築くことです(エペソ1:23、1ペテロ2:5)。(4)まだキリストを知らず、知ろうとしないでいる世の人々に証しすることです。イエス・キリストを信じる信仰の幸いを身をもって、ことばや行動で証しするのです(ヨハネ17:23,1ヨハネ5:4)。聖書の約束の通り、キリストの栄光をめざす時、あらゆる事が益(獲得)となります(ローマ8:28)。私たちを通して、キリストが崇められますように(ピリピ2:10-11)。