2020年2月16日・・・神のさばきを恐れ委ねる
ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。1コリント4:5(1-5)
コリント教会でパウロは批判されていました。当時も今日・・・もクリスチャンが信仰を批判される状況があり、人は社会で誤解や非難を受ける事があります。誤解や批判にさらされるこの世界にあって、私たちは何を目当てに歩んだら良いでしょうか。
《クリスチャンはキリストのしもべ、神の奥義の管理者です(1-2)》
伝道者たちは、キリストのしもべ、神の奥義(=キリストの福音)の管理者として教会に仕えるように神から召されて仕えていますが、その立場に入れられたのは、教会の聖徒全員です(マタイ28:19-20)。そしてクリスチャンをキリストのしもべ、神の奥義の管理者だと考えるべきなのは、すべての「人」なのです。神は先にキリストを信じたクリスチャンたちに、キリストの救いをすべての人に証しする働きを委ねました。教会は、すべての人が神を知るために建てられています。また聖書は、すべての人がキリストを信じて永遠のいのちを得るために与えられました(2テモテ3:15)。そして、クリスチャンは神の前に、神の奥義の「管理者」として、忠実だと認められることが求められます。パウロは、自分に倣うように勧め進めました。忠実な者と認められるためにどうすれば良いでしょうか。主に「私を忠実な者として下さい」と祈る時、聖書が必要な教えと力を与えます(2テモテ3:16-17)。
《主にさばきを委ねるなら、人のさばきに振り回されず平安に歩めます(3-4)》
パウロは主のさばきを一番にしました。人の評価は神の評価に比べれば小さなことであり、自分の評価さえしないと彼は証ししました。また彼は「やましいことは少しもない」と証ししました。厳格なパリサイ派にあって神に喜ばれようと追求した結果は、迫害者となって神に敵対する事でした。平安である訳がありません。しかしキリストを信じた時、十字架の身代りの故に罪に定められることはないこと、今は不完全でもやがて罪から完全に解放される事を確信して感謝していました(ローマ7:20-25)。パウロは、一切を主のさばきに委ねていました。主の前に正しい人は一人もいません(ローマ3:10)。しかし、キリストが全ての罪を代価を支払って下さったので、信じるだけで神はその人を罪がない者として受け入れて祝福して下さるのです(ローマ3:22-24)。神を第一にするなら、同じ平安と希望の内に歩めます。
《主がすべてを明らかにされますから、先走ってさばいてはなりません(5)》
人は一度死ぬことと死後に神のさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。そのさばきは、聖書の約束の通りに、キリストが再び来られる時に行われます(黙示録22:12)。すべてをご存じの神の目を逃れることはできません(ヘブル4:13,マタイ16:27)。しかし、キリストを信じる者は神のさばきを恐れる必要はありません。キリストがその人の身代りに死なれ、よみがえられたからです(ヨハネ5:24,1ヨハネ4:17)。キリストを信じるすべての人は、パウロと同じように、希望をもって悔いを残さずに生涯を終えることができます(2テモテ4:6-8)。神の知恵とさばきは人の理解を超えています。ですから自分や他の人のことをだめだと決めつけないで主のさばきに委ねましょう。