2020年2月23日・・・高ぶりと謙遜の是非
私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。1コリント4:14(6-16)
パウロは、コリントの人々が、書かれていること(聖書の教え)を越えないこと、分裂して思い上がらないために、語ってきました。彼は、コリントの教会の人々の高慢を厳しく指摘し、彼らから受けたひどい扱いを忍んでいることを伝え、読者に、あなたはどちらの歩みをするかと問い掛けます。
《まるで王様のように高ぶっていたコリント人たち(7-8)》
パウロは、自分の方がすぐれていると争って仲間を排除するコリントの人たちを戒めました。何か人からもらわなかったものがあるのですか、もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか、と。みなが支え合っているから生きてゆけるのです。私たちは、神が造られた自然の中で生かされています。それなのに、自分で豊かになっていると勘違いし、パウロたち指導者抜きで、自分が支配者すると王様になっている高慢をパウロは指摘します。神がいのちを捨てて救った仲間を蔑み、排除しようとしたなら、神はどうさばかれるでしょうか(ルカ12:20,黙示3:17)。
《自分たちが低くされ辱められている事を証ししたパウロ(9-13)》
神は自分たち使徒をさらしものにされたとパウロは言います。やがて起こる迫害によって、使徒たちは次々に殉教して行きます。それは神の導きでした。使徒たちは、生きるにしても死ぬにしても主の栄光のためだと自覚し、神が自分たちを守って下さる事を信じて希望をもっていました。ですから、主に全てを委ねて、脅されても殺される事になっても、信仰を捨てませんでした。それが多くの聖徒たちの励ましとなり、教会を強めました。パウロはかつてエリートでしたが、キリストを信じ福音を伝える者となった事で、忌み嫌われる者とされました。キリストが受けた扱いを彼も受けたのです。しかし自分がキリストを信じた幸いを喜ぶだけでなく、自分の働きを通して、キリストを信じて喜んでいる人々の幸いを感謝していたのです。自分の生涯が、多くの人々の幸せ、しかも一時的でなく永遠の幸せのために用いられたと知ることができたら、どんなに幸いでしょう(ピリピ1:20-22)。
《パウロは霊の親として自分に倣う者となるよう諭す(14-16)》
パウロは厳しいことばを書き送りましたが、それは彼らを辱めるためでなく、霊の親として愛する子どもとして諭すためでした。パウロは、自分に倣うように勧めます。自分の努力を自慢して、倣えと言っているのではありません。キリストの恵みをいただいた自分と同じように、キリストに望みを置いて、キリストに従って生きて、同じ幸いを得てほしいと願うからでした。キリストは約束しています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・・わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:28-29)。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)。私たちも、キリストを信じ従って行きましょう。「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない』(ローマ10:11)。