2020年3月29日・・・聖霊の宮とされる
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。第一コリント6:19(12-20)
コリントの教会は、自分は自由だ、自分が正しいと主張する中で多くの問題が生じていました。この箇所から、自由をどのように用いたら良いかを確かめましょう。
《人には自由が与えられているが、何をやっても良いということではない(12-14)》
パウロはコリント教会の人々にパウロは、自分は自由と言いながら、罪や欲望に支配されていないでしょうか?と問いかけます。聖書は、好きなように食べ満足して当然ではないと言う人々に告げます。(心も)からだも主のために造られた、また主はからだを含め私たちのすべての必要を満たすために私たちと共におられる、そして主は地上のすべての者の生死を支配してさばかれる、と(2コリント5:10,マタイ16:27)。神はキリストをよみがえらせたように、私たち(主を信じる者)をよみがえらせ、永遠のいのちもって神と共に生きるようにされます(1テサ5:10)。ですから私たちは、与えられた自由を永遠の祝福に至るために用いる事が必要です。
《神のものとされた自分を悪の道具としてはならない(14-17)》
クリスチャンはキリストを信じ、バプテスマを受けて、キリストのからだの一つとされました。ですからクリスチャンは、キリストと一致して喜ばれる者となる事が必要です。聖書は教会とキリストとの結びつきは、結婚する男女の結びつきと同じだと教えます。結婚は、神と人々の祝福の中で保たれ幸いなものであるべきです。一時の楽しみのために伴侶を裏切ると、幸いな関係を損なう事になります。信仰においても、家庭建設においても、きちんとした結びつきを守るようにと神様が教えているのは、地上の人生そして永遠の時を、心から楽しみ喜び続けられるためです。
《自分のからだをもって神の栄光をあらわす(18-19)》
行ないは聖くなくても心が純粋ならばいいという教えは、それはこの世の考え、善悪二元論の教えでした。それは、肉体は汚れているから仕方ないが、霊はきよい、そして肉体の汚れは霊には関係ない、と教えていました。しかし、聖書は、肉体も精神も霊もすべて神様のものであり、本来は共にきよくあるべきものだと教えます。神は、すべてのものを創造されました。すべてのものは神のものです。キリストを信じた時、神はその人の内に住まわれ、その人は「聖霊の宮」とされました。人はもともと神のもの・きよいものとして造られました。それが罪によって損なわれ悪いものになってしまったのです。しかし神は十字架の救いにより罪を解決して下さいました。救いは、罪の赦しだけでなく永遠のいのち(永遠に神と共に歩む恵み)をもたらしました(ガラテヤ2:19-20)。ですから、霊・精神・肉体・自分のすべてをもって神のすばらしさを現わしなさいと命じています(:20)。