2020年5月3日・・・キリストにある自由に生きる
主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。1コリント7:22(17-24)
ここでは人間関係がキリストを信じた事によってどう変わるか、原則を教えています。自由は私たちにとって重大な課題です。聖書はどう教えているでしょうか。
《民族の誇りに優って主の命令を守ることが大切です(17-19)》
聖書は、人がどの民族であるかということも「主からいただいた分」であり(使徒17:26-27)、どの民族であるかは、救いや神の祝福について関係ないと教えます。キリストの救いがユダヤ人と異邦人の隔てを取り除かれたからです(エペソ2:11-12、18-19)。そして、割礼の有無は取るに足りない事であり、「重要なのは神の命令を守ること」だ、と強調します。神の民として歩んできたユダヤ人にとって割礼は「民族の誇り」でしたが、それはキリストの救いに比べたら取るに足りないものです。それはきっすいのユダヤ人として歩んできたパウロを初めユダヤ人にとっては、革命的な変化でした(ピリピ3:5-7)。それは、自分の民族の誇りは誇りとし違いを認めつつも、世界を造りまた救われた主キリストを第一とする一致の土台です。
《社会地位よりもキリストにある自由が遥かに大切です(20-22a)》
聖書は社会的地位や立場についても、救われる前と同じでいなさい、と教えます。人々は、家と財産をもって自立できた「自由人」、身売りや敗北で主人の所有物として生きる「奴隷」に立場が分かれていました。自由人は自分の望む行動や所有をすることができ身分も保証されていました。一方奴隷は主人が認めなければ何をすることも持つこともできず、主人の所有物として権利は認められません。しかし自由人であっても奴隷であっても、クリスチャンは罪の奴隷状態(ヨハネ8:4)から救い出された自由人だと聖書は教えます。人はみな罪の支配の中に罪の奴隷の状態で生まれてきました。普段意識しなくとも、神に従おうすると罪に支配されている事に気付かされます(ローマ7:18-19)しかしキリストは、私たちのために罪の代価を支払い、罪の支配から解放して自由にして下さいました(ローマ6:6)。
《大切なのは、たましいが救われて主のものとされていることです(22b-24)》
クリスチャンは同時に、社会の立場に関わりなく全員、キリストの奴隷とされた者です。キリストがご自身のいのちの代価をもって私たちを罪から贖い出されたからです(6:20,7:23)。その結果、私たちはキリストのものとされました。私たちの主人はキリストです。それは最も幸いな立場の奴隷です。主は私たちを束縛せず自由にして下さいます。キリストは既に私たちのためにご自身を献げて下さいました。その愛に応えて、私たちもキリストに自分を献げるのです。聖書の教える自由は、罪の支配から解放され、神の支配の中にいる自由です。また真の自由は「自分で良い事を選び取り、行なう力」です。この自由をキリストは与えて下さいます(ヨハネ8:31-32,36)。キリストにある自由は、地上の地位や立場を越えて、それぞれ置かれた立場でキリストのすばらしさを証しします。13章に出てくる愛の実(13:4-8)、また御霊の実(ガラテヤ5:22-2)を結び広げてゆくことができます。聖書の約束している自由は、たましいの自由、罪からの自由、キリストにある自由です。