2020年6月28日・・・自分の権利を捨てる自由
しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。・・・・ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
1コリント8:7-9(7-13)
この8章は、偶像に献げられた肉を食する事についての混乱に対処します。知識は大切で有益ですが人を高ぶらせる危険があり、さらに必要なのは人を育てる愛であることを前回は見てきました。さらにこの箇所のみことばを通して「つまずきを避け一致を築くためにキリストに倣う」姿勢をいただきましょう。
《すべての人に正しい知識があるわけではありません(7-8)》
神々と呼ばれるものの中で、実在するのは主なる神だけです。他の神と呼ばれるものは、人が考案した実際には存在しないもの、あるいは被造物に過ぎないのに人が神だと誤って考えているものです。肉を実在しない偶像にささげても何ら変わりはない、だだ体の必要に合わせて食せば良いというのが正しい知識です。そう聞かされていてもなお、偶像の影響があると感じる、理性で判っていても心で納得できない、と考えてしまう人がいました。パウロは、偶像にささげられた肉そのものには害がなくても、正しい知識がないと「良心が汚される」と告げます。良心が正常に働かなくなって、主を信じて神に受け入れられてるのに苛責を覚えて平安が失なわれてしまうのです。私たちを神の前に立てるようにするのは食物ではなく、キリストの救いのみであり、それで十分です(8,参マタイ15:17-20)。
《権利を濫用して弱い人たちのつまずきとならないように(9-13)》
パウロは、強いあなたがたの権利(行使)が、弱い人たちのつまずき(信仰を損なう)ことにならないように、と注意します。その正しい判断は、成熟した信徒にとっては当然のことであっても、弱い人たちの信仰を損なってしまう危険がありました。パウロははっきりと、自分の権利を主張し、つまずきを避けようとしないことが「キリストに対して罪を犯している」ことだと指摘します(12)。そして彼は、自分は兄姉をつまずかせないために、「今後、決して肉を食べません」と宣言しました。彼は教会のために自分の様々な権利を放棄してきました。中傷に対し弁明する権利、教会の支援を受ける権利、そして肉を食する権利もです。本来ならば、偶像に献げられた肉は信仰に影響しないと教え、堂々と食すれば良い教えと行ないを証しする事にもなりました。しかし、まだそれを受け止められない人々のつまずきを避け、この方々が救われ信仰が守られるために、どんな肉も食べない、と彼は宣言し実行しました。弱いままでよいと容認したのではありません。強くなることが主のみこころです。しかし強くされる前に、キリストから離れることを避けるために、権利を自ら捨てたのです。弱い私たちを忍耐して導いておられるキリストに、彼は倣ったのです(イザ42:3,ピリ2:5-11)。みこころに反する事ならば、たとい弱い人が拒みつまずいても曲げてはなりません。しかしキリストのもとに導くためならば、どんな正当な権利をもあえて主張しない、主にある強い人の取るべき立場です。不安が広がり、交わりが不足する今日・・・は、あらゆるところでつまずきが生じやすい今日です。だからこそ、私たちはキリストを求め、キリストに倣いましょう。