2020年7月12日・・・恵みの故に報酬を辞退したパウロ
では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。
1コリント9:18(1-18)
我が子のように教会を愛して仕えたパウロの証しを通し、クリスチャンとしての成熟したあり方を学びましょう。
《使徒として教会の支援を受ける権利を持っていたパウロ(1-12a)》
この章は教会からの支援を辞退した事に対するパウロの弁明と証しです。偽教師たちの自分への中傷が事実無根であることを証明する事が、教会の兄姉の信仰を守るために必要だと彼は考え行動しました。中傷に影響された教会の人々に、彼は反論します。パウロはキリストに召された使徒に間違いありません(使徒9:15)。彼も復活の主に会った証人です(使徒9:5)。コリント教会の人たちはパウロの働きの実でした(使徒18:11)。パウロは使徒また伝道者として、教会から支援を受けて飲食する自由(=権利)(:4)、妻帯して働く自由(:5-6)、社会一般で認められている働きにより報酬を受ける権利を持っていました。それはモーセの律法にも記されていましたし、伝道者が教会からサポートをいただくことは、主の定められた権利でした。
《彼は福音の働きのために正当な権利を用いなかった(12b-15)》
パウロはコリント教会の支援を受ける権利を用いなかった、と主張しました。報酬を与えよ、と要求しているのではありません。それは「キリストの福音に対して何の妨げにもならない」ためでした。偽教師の惑わしによって、教会は福音の中心である十字架と復活の教えが混乱し、つまずきが起こっていました。教会の人たちは騙されてパウロの教えを受け入れなくなっていました。自分への誤解を解いて、彼らが真の救いの教えに立ち返るためならば、報酬を辞退してパウロが守銭奴だと言いふらす偽教師の口を封じようと彼は考えて行動したのです。キリストは人々のいのちを救うためにご自分のいのちさえ犠牲にして下さいました。彼らがキリストの恵みを取り戻せるなら、報酬が得られなくなってもかまわない、と彼は考えました。
《パウロの誇りは福音のためにすべてを献げる事であった(15-18)》
キリストを迫害する者であった自分が主のあわれみによって救われ使徒の働きを任じられました。誰よりも多く働き、主は彼を忠実な者と認めて下さいました(15:10)。しかし彼は、それを誇りとしませんでした。主の召しに従う事は当然のことだと受け止めていたからです。彼は冒頭の聖句のように、自分の報酬は報酬を受ける権利を用いないことだと証ししました。パウロが証ししたのは、プロ以上の献身です。彼は、救いの恵みを受けたことをキリストへの負債だと自覚し(ローマ1:14)、キリストがすべての人のために(いのちを犠牲にして)用意された救いのプレゼントを人々に届ける事がキリストへの恩返しだと考えたのです。報酬のために労しているのではなく、キリストやキリストの愛してやまない人々のために自ら労してゆくこと、それがパウロの誇りでした(2コリント5:15)。報酬にふさわしいだけの働きをする事も大切ですが、さらに報酬に換えられない尊いものをめざして、仕えて生きる幸いをキリストは救いと共に私たちに下さいました。