2020年8月2日・・・賞をめざして
競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。1コリント9:24(24-27)パウロは、競技に例えて、私たちに信仰の走路を走り抜くように励ましている。共に見てゆきましょう。
《賞を得られるように走りなさい(24-25)》
当時、都市には町に競技場が立てられ、人々は競技に熱狂していました。競技では、1等は、1人(また1チーム)にしか与えられず、競技者は優勝の冠を目ざして練習に励み、心や体を鍛えていました。競技者が朽ちる冠のために全力を傾けるのなら、私たちはなおのこと、神が備えられた「朽ちない冠」をめざして、熱心に励みましょう。神の下さる冠は「永遠のいのち(の完成)」(1テモテ6:12,ヤコブ1:12)、また主に「良くやった」とほめられる義の栄冠(2テモテ4:7-8)、また栄光の冠(=神の栄光を現わす栄誉)です(1ペテロ5:3-4)。《神が与えられた目標をめざして走りなさい(26-27)》
クリスチャンは、神の定めた規定と目標をめざして進む必要があります(2テモテ2:5)。そのことをパウロは、競技に例えて説明します。走路を逸れないで守り、ゴールに到着しなければ、賞を得られません。どんなに速く走っても外れたら失格です。クリスチャンのゴールは、どこだと聖書は教えているでしょう。パウロは、クリスチャンとしての走路とゴールをはっきり示しています(ピリピ3:8-11)。まず、キリストを信じて「キリストを得る」こと。次に「キリストにある者と認められるようになる」こと、つまりバプテスマを受けて教会につながり、主に従って成長し、教会内外でキリストに属する者であることを証しします。それは恵みによって与えられた信仰による義(神との幸いな結びつき)の結果です。こうしてキリストと共に歩むことによって、キリストを体験しキリストを同じ状態に完成してゆくのです。パウロは、指導する立場を自覚し、人には優しく自分には厳しくして、他の人をつまずかせないように自分を打ちたたいて従わせました。キリストに似るという途方もない目標は可能でしょうか、人に必要なのは、ただ自分の欠けを認めることです。ただキリストが自分をつかまえて導いて下さることに委ねて従うだけです。キリストが成長させゴールさせて下さいます(ピリピ3:12-14)。
《競技の例えとキリストから受ける報いの共通と違い(27)》
両者は、目標をめざすところ、賞を目ざして全力を注ぐこと、ルールを守るべきことは同じです。一方違うところもあります。神の判定は人のそれとは異なります。主は各自に賜物に従ってさばき、また上辺でなく心を見られ、人が知れない所までも見て公平にさばかれます(4:4-5)。また神の賞は1人だけのものでありません。忠実な者はだれでも冠を授けられます(2テモテ4:18)。また冠に係りなく一度与えられた救いは失なわれることはありません(ローマ11:29)。神は、私たちの歩みを通して豊かな報いと賞を与えようとしておられます。実を結び冠を受けるために必要なのは、忍耐です(ヘブル10:36)。地上のものは朽ちます。キリストを信じ、朽ちない冠を求めて生きましょう。