2020年8月23日・・・自由が与えられたのは何のため
「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。1コリント10:23(23-33)
主が与えて下さる真の自由について再度取り上げ、自由を正しく用いるよう教えています。
《自由が与えられているのは、私たちが自ら最善を選び取るためです(23-24)》
神は私たち人間に自由意思を与えられました。しかし許されているからと行なうことが益とは限りません。コリントの町は豊かさの中で不道徳も蔓延していました。キリストによる罪の赦しを履き違えて放縦に陥るクリスチャンたちを使徒は諌めます。自由に任せられたことは各自が選択や言動の責任を取ることでもあります。すべての人は罪の奴隷になってしまいましたが、キリストの犠牲により罪の赦しと罪からの解放をいただきました。だからこそ聖書は私たちに、与えられた自由を用いて神の栄光と他の人の利益を求めるように命じています。それはキリストが十字架の道において示された模範です(マタイ16:24)。
《食物はどれも主の恵みと感謝して食しますが、人々の益も配慮します(25-30)》
聖書は私たちに、偶像に供えられた肉であっても、良心の問題を問うことをしないで食しなさいと命じます。私たちの手にする食物には様々の方が関わっています。その人が何を信じ、どんな思いでそれを扱ったかは様々ですし確かめられません。その事を詮策しないように、すべての食物は主が与えて下さったものだから、感謝して食すれば良いと教えます。しかし他の人の信仰の良心が守られるために、食してはならない時もありました。同時に、他の人と考えが違うからと言って、自分に与えられた良心から出た判断を否定しないようにとも教えます。主が下さった自分の確信を保ちつつ、相手を尊重して配慮します。これが、パウロが「ユダヤ人にはユダヤ人のように・・・」(9:19-23)と証ししたことの意味です。今日・・・感染症対策について意見は様々で、教会内でも分かれています。各自が最善を求めて考え判断すると同時に、異なる意見をさばかず、方針が定まったらそれを尊重しましょう。
《何をするにも、神の栄光をあらわすためにしなさい(31-33)》
使徒は飲食に限らず、あらゆることに於て、神が崇められるために行なうように教えました。自分については、すべての営みを、神が与えて下さった恵みとして感謝して行ないます。楽しいことも苦しい事も、主は私たちの益となるように与えて下さったので、主に感謝しつつ誠実に取り組みます。周囲のすべての方々に対しては、神のみこころ、すなわちキリストを信じて救われ、信仰がつまずかずに成長して、共に主を崇め賛美することができるように配慮して関わります。逆に自分の不注意や頑固さのために、人々が信じるのを妨げたり、信仰を損なわないように、つまずきを除く配慮を心がけましょう。このように取り組む時、神が私たちを成長させ、自分や周囲が神を崇めるようにされます(使徒2:46-47)。自由が与えられたのは、私たちが神と人に喜ばれる道を選んで行うためです。