2020年10月18日・・・一致し配慮し合うための組織
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。1コリント12:25-26(22-31)
前の箇所で、教会においてすべての部分が必要と教えていました。さらにこの箇所は、見栄えのしない部分をかえって尊んで、平等を計ると教えています。ここから真の平等のあり方を確かめましょう。
《主は弱いところを尊んで調和させてくださいました(22-24)》
使徒パウロは、ほかより弱く見える部分がかえってなくてはならない、劣った所をかえって尊び、見栄えのしない部分をかえって飾ると告げます。それは世間の常識に反しているように思えますが、私たちは自分のからだについてもそうしています。鼻口耳頭手足は表に出していますが、衣服で覆う部分もあります。隠している部分も大切な器官です。覆っているから、その部分をいらない、傷付きやすいからその部分はいらないとしているわけではありません。教会も同様です。集会奉仕など目立つ奉仕がある一方、目につかない奉仕もあります。どちらも大切です。また、弱い幼子や年配者をかえって尊びます。この方々は将来の担い手、大切な知恵を証しする先達です。互いに尊敬をもって仕え合いましょう。
《一つの部分の苦しみも誉れも、全体の苦しみであり喜びです(25-30)》
それは互いに労り合うためである(25)と使徒は告げます。各自は、主によってそれぞれ賜物と働きを与えられています。強いと見えるところ、また弱いと見えるところがあります。助ける奉仕と助けられる奉仕、教える奉仕と教えられる奉仕があります。これらすべてが大切です。私たち教会は、共に苦しみ共に喜ぶ共同体です。とげが刺さったり虫歯の痛みのように一つが苦しめば体の全体が苦しみ、一つが尊ばれれば、すべてが喜びます。このように私たちはにキリストによって一つに結びつけられました(ローマ12:15)。その苦しみと誉れは、からだの頭であるキリストの苦しみであり喜びです。キリストは私たちを友としていのちを十字架でささげて、下さいました。また三日・・・目によみがえって、罪と死に勝利したご自身に、私たちを結びつけ一つにして下さったのです。私たちが苦しむ時イエス様も苦しみ、私たちが襃められる時イエス様も喜ばれます(イザ63:9)。
《求めるべきなのはさらに優れた賜物と道です(28-31)》
主は各自を様々の奉仕に任命し、それぞれにふさわしく異なった賜物を与えられました。主の復活の証人として土台を据える「使徒」、みことばを伝える預言者、みことばを教える教師、主の力ある働きに用いて頂く、慰めいやし、助け、築き治める管理、外国語を語る働き、などです。主は一人ですべての働きをまかなうようにはされません。賜物の異なる各自を大切にし、一致協力して、教会を築いていくのです。しかし、全員が追い求めてほしい賜物がありました。それは「愛」と愛の実践です。互いに不可欠であることを覚えるだけでなく、目立たない働きや弱いと見える方々をことさらに大切にする。これが主の教える平等です(ローマ15:1-3)。