2020年10月25日・・・全ての奉仕を価値あるものとする愛
......たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。......
1コリント13:1-7
賜物の優劣で争っていた教会に、さらにすぐれた賜物である愛を求めよと勧めました。愛とは何でしょうか?
《愛がなくてはどんな優れた働きをして無益です(1-3)》
パウロは、みながほしがりうらやんでいた賜物を「もし自分が持っていたら」と語りかけました。異言(今なら語学能力)、神のことばを伝える預言、優れた知識経験、神の全能が現れる完全な信仰、全き献身と自己犠牲......すばらしものです。しかし彼は、どんなにすぐれた賜物があっても「愛がなければ」煩わしいだけ、無に等しい、何の役にも立たないと告げました。現にコリント教会では、賜物が争いをもたらす災いになっていました。愛は、与えられた能力や立場や働きが価値あるものとなるために、不可欠だと聖書は教えています。
《愛は「相手の幸いのため喜んで犠牲を払う力」です(4-7)》
聖書は、愛がどんなものであるかを説明するのではなく、愛がなにを「させるか」をあかしします。愛は、赦します、忍耐します、親切にします、満足し、人を謙遜にします(4節)。また、相手を大切にし、自分よりも相手のことを思い、悪い事をされても引きずりません(5節)。しかし、同時に、不正を憎んで加わらず、正義や真実を求めます(6節)。愛により、すべての苦難を忍び、すべての事に神の最善の御計画があると信じて神と人を信頼し、希望をもって歩み続けます(7節)。しかも、この好意、赦し、希望、真実が、どんな困難にあっても尽きることがなく、いつまでも続くのです(8節)。これは御霊が結ばせる実でもあります(ガラテヤ5:22-23)。
《この愛を頂く道は、キリストを受け神の愛に身を委ねることです》
この愛は、人の内から出てくることはありません。罪に支配された人は、何を考え行なうにしても自己中心から逃れられません。神がまず愛をもって私たちを創造し、救いの御計画を定めて下さいました(エペソ1:5)。そして人類が罪に陥った時、救い主キリストを送る約束を与え、一歩一歩実行してこられたのが「旧約聖書が伝える人類の歴史」です。時が至って、神はご自身のひとり子を世界に送って下さり、御子キリストは神の命令に従って、私たちの罪のために十字架にかかり三日・・・目によみがえられました(ヨハネ10:18,3:16)。人が愛せるのは、神がまず私たちを愛して下さったからです。かつて私たちは神を知らず、神がどんなに愛されても拒んできました。しかしキリストの十字架の愛を知り、信じた時に、神の愛が私たちにもたらされました。いただいた神の愛をもって、愛を実行することができるようにされたのです(1ヨハネ4:7)。こうして私たちは神を愛し、兄弟を愛する者に生まれ変わりました。そして自己中心によって滅ぼす世に勝利させていただいたのです(1ヨハネ5:1-5)。キリストを信じて、神の愛をいただき、愛を実践していきましょう。