2020年11月29日・・・神は混乱の神ではなく平和の神です
それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。1コリント14:26(21-33a)
異言は、「舌、ことば、国語」を指す単語で、使徒2章では、ことばの壁を超えて通じるようにされた奇蹟として記録されており、救われた時に聖霊が臨まれたしるしとして認められました。コリント教会での異言は聞いただけでは理解できなかったので、解き明かしが必要でした(14:5)。聖書が予告したように(13:8)、異言はやがて目立たなくなります。しかし1900年頃から各地に異言の賜物を強調するグループが現われました。それは、恍惚の中で発っせられた一般の言語ではないことばであり、同じ語が繰り返されても解き明かしができませんでした。彼らはこの異言を語らない者の救いは不十分だと主張し、教会に熱心と共に混乱をもたらしました。聖書の記している異言は事実ですが、聖書は異言が救いや成長や祝福に不可欠とは教えていません。熱心は良いことですが、聖書よりも奇蹟が強調されてしまいました。また目立つ奇蹟には、まがいもの(精神的手法や悪霊の働き)も入ってきて、一層の混乱が生じたのです。どんなすばらしい体験よりも聖書が確かな目当てです(2ペテロ1:19)。キリストの救いは恵みと信仰によってのみ与えられ、聖書の教えと実践を通して神が成長させて下さいます。
パウロはここで、異言を含めた奇蹟をどう捉えるかを伝えています。