2021年3月28日・・・それでも主を望む時神にあって喜びがある
主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。詩篇39:7(39:1-13,40:1-6)
ダビデは霊的にもまた、世に言う犯罪としても大きな罪を犯し「主のみこころを損なった」のです。しかし、彼は悔い改め神を求め、神に「愛される人」と呼ばれるようになったのです。彼の信仰の姿勢を見てゆきましょう。
《罪と人生のはかなさ(39:1-6)》
ダビデは自分の犯した罪のゆえと告白していますが、重い忌み嫌われる病に罹り、身内からも疎まれて、肉体的にも霊的にも苦しみます(38:3-4)。そして敵対者や自分の信仰のことを中傷する「悪しき者(39;1)」に反論しようとしますが、自分の罪を思い自制し、誤った非難にさえ沈黙を守ります。しかし自制には限界があり、心の中の葛藤は重くなるばかり。そんな時に人の助けでなく主を求めるのです。同時に病を通し、地上での人生の短さはかなさを知ります。そんな空しさの中でなおも「主よお知らせください(39:4)」と神を求めるのです。《神への望みと祈り(39:7-13)》
ダビデの悔い改めは大きく深いものでした。彼は病の苦しさや「悪しき者」の誹謗中傷からの救いではなく、自分の犯した罪そのものからの救済を願って主を呼び求めるのです。罪を犯した時、その被害にあった人に思いを向けるだけでなく、むしろ犯してしまった罪、犯そうとしている罪の思いを、総てをご存知な神に対して向けるべきであることを覚えましょう。そしてダビデは自分もアブラハム達信仰の先祖と同じように、空しいこの世においては寄留者で、自分の求める安逸な場所はないことを知り、なおも神を求めるのです。今日・・・私たちはイエス様が来られ「罪の告白と、イエス様の十字架の信仰による救い」の奥義を知る幸いを得ています。ダビデもこの幸いを待ち望みました(ローマ4:6-8)。自分の罪の大きさと神への恐れ、その赦しを乞う彼の救いの切なる願いの心を神の御前に注ぎ出したのです。
《私たちの足を巌に立たせ歩みを確かにする(40:1-40:6)》
ダビデは苦悩と長い忍耐をもって主を待ち望んだ末に、主が彼の祈りを聞いてくださったことに喜びを爆発させるのです。神は彼を滅びから救い、しっかりした巌(信仰の基盤)に立たせてくださり、進むべき道を確かにして、答えてくださったのです。へブル書の記者は詩篇40:6からイエス様の降誕と人の罪の贖いのためご自分を献げた救いのための犠牲の預言を見ます(へブル10:10)。人は救われた後も、何度も同じような過ちを繰り返します。こんな霊的成長の遅い私たちだからこそ慈愛をもって神は私たちを愛してイエス様を与えてくださっているのです。後悔の時、苦悩の時こそ「主を待ち望み」、イエス様がしてくださったように自分を神に献げましょう。自分の心を注ぎだして祈りましょう。必ずご聖霊の力により「神にあって喜びがある」のです。「私の望み、それはあなたです」(39:7)。