2021年4月4日・・・平安があなたがたにあるように
その日・・・、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」ヨハネ20:19(19-23)キリストは、隠れていた弟子(使徒)たちにご自身が生きておられる事を示し、確信させてくださいました。
《主キリストは隠れていた弟子達に現われ、平安をもたらしました(19)》
彼らは、復活の証言を聞いても支配者たちを恐れて戸に鍵をかけて隠れていました。キリストは、鍵のかかった家に何なく入り、弟子たちのもとに現われました。主は、彼らがどこで何をして、また何を考えていたかをご存じでした(参:マタイ14:25)。そして彼らの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」と声をかけて下さいました。(ヨハネ14:27)「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」。主はどんな障害をも越えて、私たちのところに来て下さり、ご自身の朽ちない平安で満たして下さいます(ローマ9:38-39)。困難や危険な状況は変わらなくても、主が共におられる時に、私たちは平安です。《主はご自身がよみがえられた事を確信させました(20)》
主は、十字架にかかる時に受けられた手の傷、脇腹の刺し跡を示し、目の前にいるのがご自身であることを示されました。主は約束の通り、確かに死なれ、確かによみがえって、ここに立っておられました。ルカ伝では、まだ信じられないでいた弟子たちに主がなされた事が記されています(ルカ24:36-43)。ご自分の手足を、良く見、また触って確かめるように差し出されました。なお不思議がっていた彼らに、食べ物を持って来させて、食して見せました。さらにエマオの途上の弟子たちになさったように、十字架と復活が聖書全体の預言の通りである事を示し、聖書を理解できるように「心を開かれ」ました。みことばこそ、一番確かな確証です。主は私たちにも、聖書をもって説明し、聖書を通して確信を与えてくださいます。《主は、弟子たちを遣わし、権威を委ねられました(21-23)》
主は再び「平安があなたがたにあるように」と告げました。平安(=平和)とは、あるべき状態にあることです。「これでいい」という確信と平安は、問題や争いがない事以上の祝福です。「自分のあるべき姿を探し求めて」悩んでいる人が沢山います(黙示3:17)。人はそれぞれ、主から使命と歩むべき道が用意されています(エペソ2:10)。キリストを信じてそれを見出し、神が備えられた務めを果たしてこそ、生きがいと平安が満たされるのです。キリストの十字架と復活は証ししています。神は、ご自身のひとり子を犠牲にされる程罪を憎み、私たちを愛しておられます。罪の罰は十字架で解決されたので、ただキリストを信じるだけで主は全ての罪を赦されます。キリストは復活によって、死の支配から私たちを解放し、死ぬべき私たちを生かして守り、永遠の御国へと導いて下さいます。そして、決して捨てる事のない真実な主が共におられるので、罪も死も恐れる事なく、私たちは希望をもって歩む事ができるのです(ヨハネ11:25)。