2021年6月20日・・・父なる神の愛に生かされて
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
ルカの福音書15:31-32(15:11-32)
父に要求して遺産を得た弟息子は、町に出て行き放蕩に身を持ち崩しました。最悪の状態になった時、彼は悔い改め、父親のもとに帰る決心をします。父は彼の帰りを心から喜び、宴会を開いて彼を迎えます。しかし、真面目に働いていた兄息子は怒って家に入ろうとせず、自分は放っておいて身代を食い潰した親不孝息子には宴会を開くのか、と訴えます。不満を抱く彼に、父親は彼がどれほど愛され幸いであるかを諭しました。
この放蕩息子の譬えの箇所から、私たちの父である神が、私たちにどんな愛をあらわしてくださったかを心に刻み、目標そして拠り所としましょう。
《二人の息子は、どちらも父から心が離れていました》
弟息子は父にあからさまに逆らいました。遺産を渡されることは、家族や家人が共に暮らすための稼業を受け継ぐためのものでした。その生活の術を彼は勝手に処分して旅立ってしまったのです。一方、兄息子は秘かな不信を抱いていました。弟も父も愛し慕う家族ではなかったのです。その不信は、弟の帰郷を父が大喜びした時に爆発しました。その姿は、イエス・キリストが、取税人や罪人を喜んで迎え入れた時に怒ったパリサイ人・律法学者と同じでした。
《息子が戻って来るのを待ち続け、帰って来るのを心から喜ぶ父》
息子の帰ってくるのを待ちわびた父は、遠くから息子を見つけて同情し、駆け寄って彼の首を抱き口づけしました。彼は決心の通り、父や神に犯した罪を告白し、息子と呼ばれる資格はない、と謝罪します。しかし父は彼の口を封じ、しもべたちに息子を着替えさせ、ご馳走を準備し、共に食べて祝おう、と告げました。どんな姿になっても、すなおになって帰って来たことが一番の喜びだったからです(24)。神の前から離れた私たちも、神にとって死んだ者でしたが、神に立ち返る時に生き返った者となるのです。主は私たちが立ち返るの待ち望み、喜んで迎え回復してくださいます(エゼキエル18:32,2テモテ2:4)。
《愛と信頼によって結びつくことを切望して関わり続ける父(25-32)》
内に自分への不信と怒りを抱えた兄息子は、ある意味弟息子よりも、父を傷付ける存在でした。しかし父は、家族として心から一つになることを願って、彼を怒らずなだめました。そして説得し期待し続けたのです(31-32)。譬え話はここで終りましたが、主の働きかけは、兄息子のような人々にもずっと続いています。キリストは、ご自分を裏切った人、ご自身を十字架にかける人たちのために祈り続けました(ルカ23:34)。そして彼らが悔い改める前に、十字架で彼らのために死んで下さいました(ローマ5:8)これが父である神の愛と働きです。主が願っている事はこうです。私たちが父なる神の愛を知り、その愛に満たされること。そして神の愛をもって子どもを愛し信頼し関わり続けることです。