2021年7月4日・・・天におられるあなたがたの父
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。マタイ6:1(1-18)私たちが自分の価値に気付いて神さまに喜ばれる者となるために、イエス様が語られたことばを確かめましょう。
《聖書の神は天におられるあなたがたの父です(1)》
主キリストは、人の目から自由になるよう教えました。施しは他人への愛、祈りは神への願い、断食は自分の罪への悲しみのゆえに行うものです。人からほめられるためにするなら偽善になってしまいます。律法の専門家たちは、尊敬されるために自分を目立たせようとしていました。当初は神と人の前に正しく歩もうと願う純粋な動機から始まった努力が、いつの間にか自分が優位に立つ事が一番になって、本来の目標から外れていたのです。これが聖書の指摘する罪(語源は「的外れ」)の現われです。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる」(箴言29:25)。キリストは、人生の労苦に報いて下さるのは人ではなく神(天におられるあなたがたの父)だと教えられました。「貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる」(箴言19:17)。大切なことは、「報いは天の父から来る」という、神への信頼です。そう頭で分かっても、神を信頼せず、人ばかり気になるのは、私たちが罪に支配されているからです。人が自分を誉めず敬わないと怒ってしまいますが、怒ることでは、愛と尊敬は得られません。私たちの父である神は、そのような私たちをも見捨てずに、私たちを罪と死から救うために救い主キリストを送って下さいました。
《神は私たちの(親しい)父となる事を願っておられます》
ところで、神がすべてを見ておられると告げられて、私たちは安心・平安なだけでなく、恐ろしくはないでしょうか(ヘブル9:27、黙示20:12)。良い人は天国に行くと人は漠然と判っていますが、「あなたは(天国に行ける程)良い人ですか」と問われると自信をもって答えられません。律法の専門家たちは、自分たちが正しい者であろうと厳格な戒めを作り、形だけは守りました。その結果は、自分を誇り人を見下し重荷を負わせることでした。しかし神が遣わしたキリストは、私たちを罪の罰と支配から救い出して、私たちを神の子どもとしてくださいます。それが神の願いであり、約束されたご計画でした(エペソ1:5)。「天にまします我らの父よ......」で始まる有名な「主の祈り」(:9-13)は、神の子どもとされた者の神への親しい語り掛けです。聖書の神は世界を造り支配しておられるだけでなく、私たちをこの上もなく愛し、私たちの父として私たちを守り祝福するために関わり、働いて下さる神です。宗教は、修行やお勤めなど、自分で努力して祝福を得ようと努力させます。しかし、キリストの福音は、神が用意された救いの道です。一方的な恵みによって、神は私たちを罪と死から救い出し、ご自身との幸いな結びつきに入れて下さいます。そのためキリストは私たちのために十字架で死なれ、三日・・・目によみがえられました。