2021年7月25日・・・神は聖書を違(たが)わない
しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」マタイ26:54(50-56他)これは、主キリストがゲッセマネで捕えられる時に告げられたことばです。十字架と復活は、神があらかじめ聖書を通して告げられたご計画でした。
《主キリストは聖書を成就するために来られました(マタイ5:17-18)》
主は働きを始められる時、律法や預言者(=聖書)を成就するために来た、それは消え去ることはない、と宣言されました。人々はその権威と新鮮さに驚きました(マタイ7:28-29)。主の教えこそ聖書の教えの真意でした。聖書を曲げていたのは当時の教師たちでした。処女降誕、幼児の虐殺、エジプト避難、ナザレでの成長、いやしのわざ、優しさ、主に対する民の頑なさ、エルサレム入城......主の生涯と働きは、救い主の預言を成就する歩みでした。主は弟子たちに、救い主であるご自身の使命が死と復活であることを繰り返し教えました(マタイ16:21,17:22-23,20:18-19)。そして目前の過越の祭の日・・・に十字架に掛かると予告されました(同26:2)。《主は聖書を成就するため自ら捕えられ十字架で死なれました(マタイ26:50-56)》
主は、御父の命に従い、自ら死に、復活すると告げました(ヨハネ10:17-18)。ご自分の死が、人々の罪の赦しのための犠牲だと告げました(マタイ20:28,26:21-25)。ユダの裏切を告げ(同26:21-25)、ゲッセマネの園で、ご自分を捕えようと手引したユダに友と呼びかけ、自ら捕えられます。また抵抗するペテロを諭して止めさせました。弟子は刀剣でなく、罪と救いを証しするみことばの剣を用いるべきです。主は、ご自身がなお一切を支配しておられると告げ、聖書が成就するために自ら捕えられることを宣言されました(イザヤ53:10-11)。預言の通り、一言も弁明せず、十字架に掛かり、自ら霊を父に渡して、死なれました(ヨハネ19:28-30)。主は、聖書を成就するために、自ら十字架に向かい、私たちの罪の赦しのために、いのちを犠牲にされたのです。《十字架と復活の福音こそ救いをもたらす神の力です(1コリント1:18-25)》
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)。罪の結果は、死(神のもとから断ち切られること)です。主キリストは、私たちのために死なれました。それを信じる時に、私たちはキリストと共に罪に対して死んだ者とされます。死んだ者には、もはや死のさばきはありません。またキリストは、私たちのためによみがえられました。信じた者はキリストと一つにされて、死んでよみがえった者となるのです。キリストが朽ちないからだをもって永遠に生きておられるので、私たちも永遠に神と共に生きます。身代りに死ぬだけで赦されていいか、神がそんな愚かなことをされるのか......愚かと思えても、神は愛の故にご自身を犠牲にされた。他に道がないことを知っておられる主は、初めから計画されて成就されました。キリストの十字架と復活を、私のためだと信じる事こそ救いの道です。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1:18)