2021年8月22日・・・贖(あがな)いの三つの類比
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」マルコ10:45贖いとは「代価を払って、取り戻す・解放する」という意味のことばです。救い主はご自身の働きについて、この「贖い」ということばを用いて教えられました。贖いについて、聖書が教えている3つの譬えを通して確かめましょう。
《人を死に追いやる罪をいやす(医療との類比)(ルカ5:27-32)》
キリストは、「医者を必要としているのが病人であるのと同じように、救い主を必要とするのは罪人である」と教えられました。すべての人は罪の内に歩んでおり、罪を除けないでいます。良いことが判っても行なえず、悪いと判っていてもやめられません。しかし、キリストは、信じる者の内に生きて罪と死をいやして、永遠のいのちを与えてくださいます。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)《罪に赦しをもたらす(裁判との類比)(マルコ10:45ほか)》
主は、ご自身が罪を赦す権威を持っておられることを、神のわざを行なう事によって繰り返し証明されました。神は罪を見逃したのではありません。すべての罪を御子が十字架で負うように計画し、御子は実行されました(マルコ10:45,ヨハネ10:18)。それ故に、御子は父なる神から、すべてをさばく権威を委ねられたのです(ヨハネ5:22)。それは、民事裁判に似ています。罪は神の受けるべき尊敬と感謝と賛美を奪い、神に多大な損失を与えています。罪の報いは死です。その代価を人は払えません(詩篇49:8)。そこで主は、私たちの払うべき代価を御子に負わせました(コロサイ2:14)。また刑事裁判に似ています。聖い神は、罪の内に歩んだ者をさばかなければなりません。私たちを愛して救うために、神は私たちが負うべき罪の咎を御子に負わせました(イザヤ53:6,ローマ3:23-24)。そしてキリストは、私たちが罪を犯しても、いつも弁護して下さいます(ローマ8:34)。《罪と死で支配する悪魔を打ち砕く(戦いとの類比)》
当時の戦争では、国同士の戦いでは、負けた国の国民は、勝った国の捕虜とされ奴隷とされました。最初の人類が罪を犯したことで、人はサタンに支配される者となりました(ローマ5:12)。しかしキリストは、この悪魔のしわざを打ち壊すために来られました。人の姿をとって来られ悪魔の誘惑に勝利しました。そして十字架と復活で、悪魔の武器である罪と死に勝利されました。人の罪を訴え、自分の巻き添えに滅ぼそうとするサタンの武器は、キリストの十字架と復活によって「武装解除」されました。やがてキリストは、サタンを滅ぼされます(コロサイ2:15,1ヨハネ3:8)。キリストの武器は、破壊し滅ぼす武器ではなく、赦し救う武器です。キリストの勝利は、愛による勝利です。サタンの手に落ちて神に敵対する人類を救い出して味方とし、共に悪魔の策略に勝利する者とされるのです。キリストを信じた者は、キリトの勝利の凱旋に加えられて、共に天国の完成をめざします。キリストの十字架の贖いは、私たちを完全に救います。