2021年9月5日・・・十字架と献身の道は喜び
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。ヘブル12:2
主が与えられた体を守るため感染予防も大切です、しかし心配が続くことによって普段の喜びを失なっていないでしょうか。困難の中で喜びに満たされて歩み、仕えて下さったキリストの喜びを自分のものとしましょう。それが主の願いです。
《試練の中ではなおのこと、キリストから目を離さないように》
聖書は、キリストのもとに行き、キリストに留まり、キリストと交わるように勧めます。ヨハネは、キリストとの交わりが喜びが満たされるためだと書き送り(1ヨハネ1:3-4)、パウロはテモテに、キリストをいつも思っていなさいと勧めました(2テモテ2:8)。ヘブル書は聖徒が元気を回復するために、キリストから目を離さないよう勧めました。そして主キリストは、疲れ・重荷を負っているすべての者に、ご自身のところに来るように招かれました(マタイ11:28-30)。キリストから目を離さ先日・・・はごめんなさい、なければ、いつも主のもとに行き、主の語りかけ働きかけを受けることができ、いつも主と共にいることができます。雑踏での幼子のように、目を離すと迷子になってしまいます。主から目を離さないように。
《キリストの平安と喜びは、状況に関わらずあふれています》
キリストは預言の通り、世の幸せとはかけ離れた生涯を送られました(イザヤ53:2-4)。誕生の時の困難と逃避行、不穏な社会、周囲の無理解、御子を認めない指導者たち、日・・・和見な群集、未熟な弟子たち、そして困難な受難と十字架の道です。しかし、主は尽きない平安を持っておられ、ご自身の平安を与えると約束されました(ヨハネ14:27)。キリストの喜びと平安の源は、御父に自らを完全にゆだねることであり、御旨に従ってご自分を犠牲にすることでした(詩篇40:8)。こうして冒頭の聖句にあるように、尽きない喜びに満たされて十字架に向かわれたのです。主は、ご自身の喜びが私たちに満ちるよう祈られました(ヨハネ15:11,16:24,17:13)。主にある喜びは環境や出来事の中でなく、主と同じように、主に自分を献げ、主のみこころを行うところにあります。主はそのために十字架の救いを下さいました。
《主と主にある一致こそ、揺るがない喜びをもたらします》
主と一致する時に、私たちは主の喜びに満たされます。主はぶどうの木の譬えを通して、ご自身に留まる事こそ、喜びの源だと証しされました(ヨハネ15:4)。主と一致するとは、主の愛に留まり、主のことばを行なうことです。その時、主の喜びが満ちあふれます(ヨハネ15:9-11)。主のもとに来て、飲むなら(キリストを信じて受け入れるなら)、私たちの内から「あふれる泉のように神の恵みがあふれ出ます。生ける水が流れ出るのは、信じた者の心の奥底からです。こうしていつも祝福に満たされます(ヨハネ7:37-38)。神と一致した関係にある人の生き方は、どこにいようと、息をするのと同じくらい自然です。自分で絞り出そうとしなくても、主が満たして下さるからです。