2021年9月12日・・・神を求め渇くたましい
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは神を、生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って、神の御前に出られるのでしょうか。詩篇42:1-2イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と言われた。詩篇42から「神を求め渇くたましい」についてみていこう。
≪故郷のエルサレムから遠く離されて≫
詩篇の作者はエルサレムから遠く離れたヨルダンとヘルモンの地、ミツアルの山地に身を置いている。偶像礼拝の異邦人から「おまえの神はどこにいるのか」と絶えず攻めたてられ、彼のたましいはうなだれ「昼も夜も涙が私の食べ物である」と嘆く。詩人のたましいは生きるまことの神様を求め、鹿が谷川の水を慕いあえぐように神を求めていると詠う。
≪谷川の湧き水も大滝のとどろきも支配されるのは主≫
苦しみの中で詩人は目を上げて大いなる水に想いを向ける。生ける神様は私たちの生も死もすべて御手の上に握っておられる方だ。その方の確かな存在に改めて心の目が開かれたとき、主こそが「昼には主が恵みをくださり、夜には主の歌が私とともにある」と苦難の中にあっても神様が備えてくださった恵みに目を留めることができた。谷川のわずかな湧き水も大滝のとどろきの水もどちらも支配しておられるのはお一人の神様だ。
≪なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか≫
すべてを支配される神様の存在を再確認しながらも、詩人はなお「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」と問いかける。私たちの実際の問題は、すべてを支配される神様を信じているが、その存在を近くに感じることができないということだろう。イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれ、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と御父のご臨在がともにあることを渇望された。
≪私たちが渇くとき、神様はともにおられる≫
天の父なる神様はすべての人を罪から救う永遠の昔からの尊いご計画を御子に託された。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられた」(ピリピ2:6-8)と聖書は証ししている。御父は御子の前から一時的に姿を隠されたが、御子が完全なものとされ、高く引き上げられる栄光の瞬間のために全集中の愛で見守っておられた。神様は私たちひとりひとりにもご計画をもっておられる。それは私たち自身を神様ゆだね、信頼して神様の栄光をあらわすことだ。その完全な模範をイエス・キリストは十字架の上で私たちにお示しになった。私たちのたましが渇くとき、私たちの救い主であるイエス・キリストによって神様は確かに私たちとともにおられる。