2021年9月19日・・・輝きを増し続ける人生
しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
2コリント3:16-17(10-18)
当時のパウロは熟年、残された地上の生涯は「あと10年」程でした。しかし彼は「望みを抱いているので・・・きわめて大胆にふるまう」と宣言します。輝いて生涯を全うできるものを、キリストの救いは私たちに与えます。
《朽ちないキリストの栄光は、消え去るモーセの栄光に優ります(10-14)》
モーセの律法は神のすばらしさと、神に受け入れられる道を示しました。しかし罪に支配されているため人が到達できない現実を明らかにしました。モーセは、律法の栄光に輝く顔を覆いましたが、それは消え去るものの最後を見て失望させないためだと聖書は告げます。しかしキリストにより、覆いは取り除けられました。罪と死を克服できない人間の現実を直視しても失望しなくて良くなったからです。十字架と復活の救いによって、キリストは罪を解決し、死を解決し、汚れを解決して下さいました(ヨハネ3:16)。それは、不治の病の告知をためらっていた状況から、完治の道が発見されたので病名を知って治療に向かえば良くなった状況と同じです。
《主に立ち返るなら、いつでも覆いが除かれ、自由にされます(15-17)》
パリサイ人や律法学者は、モーセとプライドに固執し、自分で罪を克服できないことを認めず、キリストを拒んでしまいました。自分の限界を受け入れ、自分ができることをすれば良いことを認めることが、大人になるために必要です。救いは主のものです、私たちが成すべきことは、悔い改めて主に立ち返ることです。主はすべての人を招かれました(マタイ11:28-29)。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マルコ2:17)と主は言われました。主は御霊として私たちと共にあり、内に住んで下さり、その時私たちは自由にされます(ヨハネ15:16)。聖書の告げる「自由」は、罪の死からの自由、また、良い選択をして実行する力です。この自由を得る時、主と人々と共に、自分も喜ぶ幸いを味わえるのです。
《栄光から栄光へとキリストに似た者に変えられます(:18)》
モーセの栄光は、人を失望させないため覆う必要がありました。彼の卓越性は、「私は無理、真似できない」と、また「こんなに優れていてもだめだったのか」と人を絶望させるからです。しかし、キリストを信じる時、人が罪と死に対して無力である現実を、隠す必要はありません。なぜなら、キリストの恵みは無代価で与えられ、誰でも信じれば与えられるからです。そしてキリストご自身が、私たちを守り完成させて下さるので、失望に終ることはありません。これが人生の晩年、迫害や困難の時代を迎えても力強く歩んだパウロの確信です。十字架と復活がその確証です。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(2コリント3:18)。