2021年9月26日・・・自信をもって歩ませる救い
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。2コリント4:1-2(1-7)この箇所は、キリストを信じて救われた者が、自信と確信を持って歩めることを証ししています。共に確かめましょう。
《聖徒は、自分をすべての人の良心に推薦できます(1-2)》
聖徒は、永遠のいのちをもたらすキリストの福音を委ねられました。しかし、この尊い務めにつけられたのは、自分の功績でなく、全てをご存じな神のあわれみによってです。愛される価値のない者であることを承知の上で、御子を犠牲にする程に、神は私たちを愛しておられます。主は、無に等しい私たちを選び任命して用い、栄光をあらわしてくださいます(ヨハネ15:16,1コリント1:27-28)。主がして下さった恵みをただ証しするだけですから誰の目も気にする必要はありません。《証しや伝道が拒まれても、負い目に縛られずに前進できます(3-5)》
伝道や証しは、拒まれることもあります。一生懸命祈っても相手に届かない事もあり、手を尽くして伝えても理解していただけないこともあります。聖書は告げます。「滅び行く人々」に対しては、覆いがかかっているので、理解できず、受け入れられないのだ、と。最善を尽くし、絶えず成長し、研鑽を積むことは必要です。しかし、伝わらなかったからと言って、失望したり自分を責める必要はありません。「この世の神」(サタン)が福音の光を遮りますが、誰でも求めれば救われます。その人自身がキリストの光を拒んでいるために、サタンが働くのです(ヨハネ3:17-21)。自分の欠けを気にする必要はありません。主は「罪人のかしら」であるパウロさえも用いられました。自分を伝えるのでなく、自分を救って下さったキリストを伝えるだけ、自分を誇るのでなくキリストを誇るだけです。それが主のみこころです(ガラテヤ6:14)。《内側から主の栄光が輝き出る者とされます(6-7)》
主が「光、あれ」と告げると、暗い世界に光が輝きました(創世1:3)。同様に主は、私たちの心を照らされます(ヨハネ1:4-5,9)。主は「あなたがたは世界の光です」と告げました。キリストを信じる者は「いのちの光」を持ちます(ヨハネ8:12)。私たちは、宝であるキリストを、土の器のようなありふれた自分のからだ中に頂いています。キリストは私たちの内に住んで、心を照らし・きよめ・いのちで満たします。こうして私たちは、神のすばらしさに染まってゆき、周囲の人々が「この人はどこか違う」、それはキリストを信じたからではないか、と気付き始めます(使徒4:13)。キリストを見(ヘブル12:2)、心に留め(2テモ2:8)、みことばを蓄え、キリストと共に仕えることによってです。(ヨハネ12:46)わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。