2021年10月31日・・・主は、私を新しく造り変えた
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
第二コリント5:17(11-19)
パウロは「肉にしたがって人を知ろうとはしません」と宣言しています(16節)。キリストの救いは、人間や人生の見方をどのように変えたか、共に確かめましょう。
《キリストのさばきの前に立たなければなりません(10-12)》
世界の終りに、私たちは、救い主キリストのさばきの座の前に立たなければなりません(10)。キリストは、最初は救いのために来られましたが、終りの時にはさばきのために来られます(ヨハネ5:22)。キリストは過去・現在・未来のすべての罪のために十字架で身代りに死んでくださいました。そしてさばきの時にキリストは、「この人はわたしの贖いを信じたので罪に定められない」と告げてくださいます(ローマ8:1)。また行なった善行の故に(それも主の恵みですが)主は報いてくださいます。しかし、キリストを信じない者は、生来の罪の故にさばかれます。ですからパウロたちは、一人でも多くの人が救われるように、労していました。彼は教会に告げます。このことを知ってほしいのは、あなたがたも同じ思いで歩んで祝福されるため、また確信をもって証しできるため、だと。
《キリストの愛に捕えられて新生しました(13-17)》
パウロは、キリストの救いとさばきを伝えているのは、正気であるなしに関わらず、神のため、また、あなたがたのため、と証ししました(使徒26:24-29)。キリストの教えは非常識と非難する人々がいたからです。ユダヤ人が聖書を文字通り受け取らず、キリストを拒みました。今日・・・もそうです。しかし聖書の預言と証しの通り、神はご自身の御子を与え、犠牲にされた程に、私たちを愛して下さいました。どんなに十字架のことばが愚かに思われてもこれが事実です。そして、キリストの内にある者は「新しく造られ......すべてが新しくなりました」。このみことばに立つ時、私たちは人を正しく見ることができます。過去にどんな誤ちや弱さがあっても神は赦し、完全な者として受け入れて下さいました。罪や弱さを、今なお引きずっていたとしても、それはきよめられ、やがて完全にされ、こうして主にある一致が築かれていきます。「私は、さばきません」と宣言するのは、この希望に立つことです。
《キリストの和解のことばを委ねられました(18-19)》
パウロは、救いと救われた者の務めを簡潔に伝えました(:18)。すべては神から出ていることです(ローマ11:33-36)。神はキリストによって私たちを神と和解させて下さいました。つまり、キリストの十字架によって義と認め(罪なき者とみなし)、義とされた(神と一つになる者とされた)のです(ローマ3:23-24)。これがキリストの救いです。彼は、言い換えて繰り返します(:19)世は神に敵対し、いのちの源である神から断ち切られ、さばかれる状態にありました。罪の責任を人類は負い切れません。そこで主は、全人類の罪を御子に負わせました。預言にある通りです(イザヤ53:5,6)。神は、こうして私たちを恵みによって和解させてくださいました。そして救いを伝える和解の働きを、私たちに委ねてくださいました。。