2021年11月7日・・・主よ、私の目方は足りていますか
石居義生
『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方のたりないことがわかったということです。ダニエル5:27(1-31)
バビロンのベルシャツァル王が催した大宴会の席上、幻・人間の手の指が現れ何かを書き始めました。ダニエルは「あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかった」と、その書かれた文字の解き明かしをします。その意味を共に見てゆきましょう。
《主は私たちをはかりにかけられる》
ベルシャツァル王は沢山の貴族を招いて大宴会を催し得意満面。彼の富、権力の多くは先達や親からのものですが、それを忘れて高ぶり、バビロンの父と呼ばれるネブカドネザルの戦利品の器を持ち出し、しかも偶像の神を賛美しながら、みなで酒を飲みます。その時突然手の指が現れ、壁に何かを書き始め、王は怯えますが誰も意味が分かりません。ダニエルが呼ばれ『神があなたの治世を数えておわらせた』、『あなたが秤で量られて、目方の足りないことがわかった』(5:26,27)と神のさばきの解き明かしをします。権力、権威は適切な範囲ならある程度必要なものですが、必要以上に求める時、偶像となり高ぶりの原因となるのです。いつの時か神は私たちの信仰をはかりにかけ、さばかれるのです。
《主は私達にさまざまな気付きの機会をお与えになる》
ネブカドネザルはダニエルの三人の仲間たちが信仰の故、炉の中でも無事であった奇蹟を通して真の神を知り、御名を褒めたたえました(3:28,29)。しかし結局自分に都合の良い、偶像の神を礼拝し続けていたのです。そして世界最強国家を作り上げたことを「私が私の権力によって建てたものではないか(4:30)」と高ぶり、神の戒めを受けたのです。ベルシャツァルもそれを知っていながら悔い改めることはなかったのです。主は様々な出来事と戒めを通して私たちに気付きの機会をお与えになります。私たちの信仰がいつ量られても良いように、これらの機会を生かすことです。
《主の前に充分目方のあるものとなるために》
ベルシャツァルが「思いを巡らし(5:6)」たように、私たちも自分の罪にはうすうす気がついています。それを主の御前に告白し悔い改めることです(詩51:6)。また心の伴わない良い行いをして赦しを得ようとしても神を侮ることはできません(ガラテア6:7,8)。私たちの総ては主の手にあり(5:23)イエス様の仲介なしで主のみもとに立つことはできません。イエス様の尊い血の犠牲によって得られる永遠のいのちとは、私たちの罪のために断絶していた神との関係が回復することなのです。日・・・々の悔い改めと戒め、励まし、慰め、この神との正しい関係の継続が信仰の目方を増してくれます。主よ、私の目方は足りていますかと、お尋ねしながらさばきの日に備えましょう。