2021年11月21日・・・主の晩餐の意義
また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」マタイ26:26(26-30)「主の晩餐」は、キリストが教会に、行なうように定められた「礼典」と呼ぶ二つの「式」の一つ(もう一つはバプテスマ式)です。
《主は教会に、この式を守り続けるよう命じました(マタイ26:26-29,28:18-20)》
バプテスマ(浸め)は、キリストが私たちの罪の身代わりに死なれ、葬られ、よみがえられたことと、キリストを信じる者が同様に罪に対して死に、神にあって生きる者となったことを象徴する式です。それは、キリストの救いを信じる信仰の告白と、生涯主と教会に仕える誓いです。こうしてクリスチャンは教会につながり、キリストの弟子としての歩みを始めます(ロマ6:3-4、使2:41-42、1ペテ3:21)。キリストを信じて救われ、バプテスマを受け、主の教えを守り行ない、主の晩餐に預かる。これが聖書が教え、証ししている順序です(使2:41-42、マタ28:19-20)。主の命令は私たちの益のために与えられました。信仰は、信頼して従うことです。従う事は信仰の証しであり、祝福です。《教会とキリストとの結びつきを確かに保つためです(マタイ26:26-29)》
主は十字架にかかられる前、パンやぶどう液を配り、「わたしを覚えて、これを行いなさい」と告げました(ルカ22:19,1コリント11:23-25)。主の晩餐は、私たちを救うためにキリストの流された血と割かれた体を覚え、この犠牲によって私たちが救われ、主にあって一つにされたことを確かめる式です。主の体と贖いの血は信仰によって霊的に受け入れるものです(ヨハネ6:51-56)。バプテスマの水と同じく、主の晩餐のパンとぶどう液は、主が定めた象徴であり、パンとぶどう液自体が罪をきよめるのではありません。しかし、食することを通して、キリストの体と血を信仰によって受け入れたことを形で現わし、再確認します。《キリストを告げ知らせ、私たちが信仰を整えるためです(1コリント11:26-31)》
(1コリント11:26)「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」主に対して、自分に対して、人々に対して「主の死を言い表わす」ことです。主の晩餐で共にパンとぶどう液を食することは、主が私のために十字架で死んで救って下さったこと、そしてキリストによって一つにされたことを、この食する行いを通して確認し、証しするのです。キリストの十字架の犠牲により救われている事を信じているからこそ、伝えることができます(2コリント4:13)。また信仰の自己点検の時です。主のからだである教会の一員として、改めるべきことを示されたら悔い改め、主にきよめていただいてから臨みます。それは、互いが主にある平安を保ち、一致して歩み、教会が祝福されるためです。今は主の晩餐は感染対策のためにお休みしています。しかし、十字架の贖いによって結ばれたことを思い起こし、信仰生活を整え、主を証しつつ、再開を祈りましょう。