2021年12月19日・・・この方にはいのちがあった
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。ヨハネ1:4ヨハネの福音書の冒頭には、救い主キリストがどんなお方かを証ししています。この聖書の証しから、3つの事を共に確かめましょう。
《第一に、御子キリストはいのちをもっておられます》
聖書のことばには、いのちについても三つの単語があります。一つめは「暮らし、生きる手段、寿命」を表わすいのち、二つめは「生きる意思や意欲の座としてのたましい(霊)」を指すいのち、三つめは「分かち合ういのち」で、それは、人の霊を活かす「いのちの源」であるいのちです。「この方にはいのちがあった」というのは、この「三番目の意味でのいのち」です。主は「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(12:25)と告げました。この箇所の、1,2番目の「いのち」は各自のたましい、キリストは私たちのためにそれを犠牲にされました。そして3番目の「いのち」はこの生かすいのちです。キリストは天地を形造り、そこに生きるものにいのちを与えられた方です(1章、コロサイ1:15-17)。この方が人となって来られました(1:14)。《第二に、神は御子キリストを与えてくださいました》
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)。人のいのちは、罪と死によって滅びてゆき、誰も死を免れることはできません。どんな犠牲を払っても永遠に生きることはできません。いのちを与え生かすことができるのは、すべてのいのちを創造された神だけです。そしてキリストは、私たちが罪と死によって滅びないで、神と共に永遠に生きるようにさせるいのちを持っておられました。罪の世界に神は御子を送られ、御子は人となって生まれ育ち、私たちを愛して仕えてくださいました。人類がこの方を拒む中で、ご自身のいのちを、私たちの罪の身代りに十字架で犠牲にされました(ローマ5:6-8)。これが、神が「御子を私たちのために与えられた」ことの意味です。《第三に、それは私たちが御子キリストによっていのちを得るためです》
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(20:31)。御子キリストは聖書の約束の通りに、十字架の三日・・・目によみがえられました。御子キリストの犠牲は、私たちがこの方の持っておられる永遠のいのちを受けるためでした。永遠のいのちは、罪が赦されなければ受けられません。物ならただ受け取ればよいのですが、永遠のいのちは霊の結びつき、共に信頼し愛し合って生きる結びつきです。十字架は、神の赦しの代価、赦しの証明です。十字架の犠牲のゆえに、私たちはキリストを信じるだけで、神は赦し、受け入れ、永遠のいのちを与えて下さいます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(1:12)。この方に感謝をして礼拝を献げる時に、クリスマスの真の希望と喜びをいただきます。`