2022年1月9日・・・みこころに添った悲しみの幸い
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。2コリント7:10(5-10)この箇所を通して、私たちが、主を信じる信仰によって、どのように苦難を乗り越えさせていただくのかを確かめましょう。
《主の慰めが回復と喜びをもたらしました(:5-7)》
パウロたちは、教会が立ち直るため祈り尽力し続けましたが、回復の兆しが見えませんでした。自分が訪問することは逆効果になると判断したパウロは、テトスを名代として派遣しました。しかし音信も途絶えたままでした。パウロたちは平安がなく、あらゆることで苦しんでいました。サタンの攻撃や肉の性質が教会に対して執拗で、自らの力不足と後悔と心配に気落ちしていたのでしょう。しかし、主は慰めてくださいました。テトスが戻ってきたことでひと安心しただけでなく、彼が、教会の兄姉が「心を痛めつつ、熱心に悔い改めた」との朗報を伝えたからです。教会に主が働かれ、テトスは慰めを受けました。彼が受けた慰めを通して、パウロたちも慰められたのです(参:1:4)。パウロたちは心から喜び、賛美することができました。主は、試練と共に脱出、解決の道を用意され、すべてを益へと変えてくださいます(1コリント10:13,ローマ8:28)。
《主の慰めにより、悲しんだことも最善と証しできました(8-9b)》
パウロは厳しい手紙(1コリント)によって、教会を悲しませたことを後悔しました。優しく諭していたら、忍耐して待っていたら、など様々の思いが浮かんだでしょう。涙ながらに別の手紙を書き送って、愛を伝えようとしましたが回復しませんでした(2:4)。しかし、今は喜んでいると証ししました(8c-9b)。彼が喜んだのは、教会が悲しんだからではなく、悔い改めたからです。悲しみ悔いただけでは、益とはなりません。人は、自分の努力で罪から抜け出せないからです。後悔しても繰り返し、徐々に痛みも感じなくなってしまうことにもなります。しかし悔い改め主に立ち返るならば、主のいのちがもたらされます。《みこころに添った悲しみは救いに至ります(:9c-10)》
主のみこころに添った−−−つまり主に信頼し主に従って悲しむ−−−時その悲しみは、主が癒やして下さり、害として残らないのです(ヨブ5:18,詩篇147:3)。敢えて悪に陥ってはなりませんが、「罪の増すところに恵みはさらに増す」ことで、さらに主の赦しと恵みの偉大さを知り、証しすることができます。主を求め従おうとして悲しむところには、神の愛が注がれるので、苦難から忍耐、練られた品性、そして希望に至ります(ローマ5:3b-5)。他方、世の悲しみ、つまり主を拒む中での悲しみは、神の愛を拒み、苦難から諦めや自暴自棄、そして妬みや復讐の末に絶望に至ります。主の祈りの冒頭「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」は、主の栄光のためだけでなく、自分が救われるための祈りです。