2022年1月16日・・・試練を通して確証される救い
見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。
2コリント7:11(10-16)
今日・・・の箇所を通して、みこころに添った悲しみは、救われていることを証明し、主の平安と希望をもって歩ませることを確かめましょう。みこころに添った悲しみは、どんな幸いをもたらすでしょう。
《第一に、信仰の熱心をもたらします(10-11ab)》
聖徒は救われた時に、一切の罪を赦されました。それは、恵み(神の一方的な好意)によります。信仰によって罪を赦されてから、罪の性質(考え方、感情、意思決定)が神に喜ばれる性質に変えられて行きます。この「聖化」の課程は、次のように行なわれます。まず、日・・・々の出来事や様々の問題、聖霊と聖書のことばを通して、主が自分の罪に気付かせます。そして、主は私たちの頑なさを砕きます。主は、私たちが失敗するのを許し、問題に直面し、深い悲しみを経験させます。主は、悪を行なっても痛むこともしないコリント教会を、パウロを通して打ちました。彼らは次第に、パウロたちの方が正しいことに気付き、主を恐れるようにされました。こうして教会は、熱心に悔い改め、自分たちの罪を告白しました。
《第二に、潔白、罪から救われた者であることを証明します(11c-12)》
パウロが、反発を覚悟で厳しい手紙を書いたのは、コリント教会に与えられた信仰の真価が、諸教会や伝道者たち、何より神の前に証明されるためでした。「潔白である」とは、間違いを犯さなかったという意味ではありません。聖書は、もし「罪を犯さなかった」と聖徒が主張するなら、真理から外れていると教えています(1ヨハネ1:8-9)。クリスチャンが「潔白である」とは、キリストを信じたことによって、罪が赦されている、その結果、神が罪を認めないと言って下さった、ということです(ローマ8:1)。私たちが、救われたことを確信できるのは、主がみことばと聖霊によって確信させてくださるからです。それを他の人に証明するのも、主の働きです。善行を通して信仰を証明しようとしたら、却って確信が揺らぎます。救われて赦されていても、まだ罪の性質が残っているからです。私たちは主に喜ばれるように励むべきですが、事を行なわせてくださるのは主であることを覚えていましょう。
《第三に、愛の一致と信頼を強固にします(13-16)》
みこころに添って悲しみ悔い改めたことで、教会は兄姉の救いが本物であることを証明しました。それを知ってパウロたちは慰められました。教会が悔い改めた現場に居合わせたテトスの喜びと平安が、直に伝わって慰められました。またパウロはテトスを派遣する時、コリント教会の救いは確かだから必ず立ち直る、と誇ったその確信が正しかったことが証明されました。テトスは、兄姉の従順、主への恐れ、主にある敬意を目の当たりにして、コリント教会を増々愛するようにされました。主に結びつけられて、互いに全幅の信頼を寄せられる事は、本当に幸いです。