2022年4月10日・・・私のために死なれたキリスト
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ローマ5:8(6-11)
キリストの十字架は、神の私たちへの愛のしるしであり救いであると、聖書が私たちに証ししています。
《第一に、キリストは不敬虔な者たちのために死なれました(6)》
パウロは「実に」と、驚くべき重要な事実を伝えます。私たちが弱かった、つまり罪と死に支配されて、弱く無力である時に、です。神は、自身が定めた時に、預言の通りに救い主キリストを送られ、救いのわざを成されました。神は、世界を造り支配しておられるお方、この方によって私たちは造られ生かされています。にも関わらず、この方を無視し、逆らって関係を拒んでいたら、その報いを受けなければなりません。それの結果は死(=断絶)です。しかも人類は、自分で償うことも改めることもできません。そこで、神の御子キリストが人となって、人類すべての罪とその罰を身代りに負って死んで下さいました。それが聖書が預言し、キリストが成された「贖い」(身代り)の死です(イザヤ53:6,マタイ20:28)。
《第二に、十字架は、考えられない程大きな愛の犠牲でした(7-8)》
敵対する者のためにいのちを犠牲にする事があり得るでしょうか。正しい人のためでも、同情していのちまでも犠牲にすることは稀です。本当に良くしてくださった恩人のためなら、死ぬ人がいるかも知れません。同胞が殺されようとしている時には、いのちを賭して戦うことはあっても、身代りに死ぬために自分を差し出すことは困難です。しかし、いのちを犠牲にして救うために来たご自身を「認めず、拒み、殺そうとする」敵−−−それが私たちです−−−のためにキリストは死んで下さいました。それが主キリストが十字架で示された、神の愛です。キリストの犠牲による救いを通して、私たちは本当の愛である神の愛がわかったのです(1ヨハネ4:9-10)。神の愛は、相手を自分より大切にし、見返りを求めず一方的な好意によって相手のために犠牲を払う思いと行動に現わされました(ヨハネ3:16)。《第三に、信じるだけで救いは与えられ、完成します(9-11)》
信じてキリストのものとされた者が神の怒りから救われるのはなおさらだ、と聖書は告げます。全人類の罪を負う重荷を祈りにより乗り越え、主は十字架に向かいました。自身を十字架にかけ罵しる人々のために「父よ、彼らをお赦しください......」と祈り(ルカ23:34)、いのちを献げました。復活された主は、自身を見捨てた弟子たちを「平安があなたがたにあるように」と励ましました(ヨハネ20:19-)。教会を荒らし信徒を捕え投獄したパウロに現われて救いに導き、宣教者とされました。私たちはキリストを信じた時に、すでに神と一つにされ永遠のいのちに与っています。主の豊かな恵みのゆえに、平安をいただくだけでなく、救って下さった神に感謝し、愛し喜んでいます。このキリストの救いはプレゼントであり、私たちが信じて受け取ることを、神は切に願っておられます(1テモテ2:4)。