2022年5月1日・・・誇る者は主を誇れ
「誇る者は主を誇れ。」自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。2コリント10:17-18(12-18)
誇り(プライド)は、持ち方によって災いにも益にもなります。パウロたちの証しを通して、幸いをもたらす誇りをいただきましょう。
《第一に、優劣でなく忠実に務めを果たすことを誇りとします(12-14)》
悪い意味での誇りは「傲り高ぶり」です。その行く末は滅びであると、聖書は遥か前から伝えています(箴言18:12)。パウロは、自分を他の人と比べて優劣を争うのは、愚かなことだと告げます。そして、自分たちが神の定めに従って働いたことを大切にしていると証ししました。その姿勢は、主の働きだけでなく、どんな働きや関わりにも通じます。パウロたちは、主に導かれて小アジアから海を渡りマケドニアやコリントのあるアカヤに福音を伝え、教会を築きました。主が与えられた使命を、困難があっても投げ出さずに取り組み続けたことが、コリントの兄姉に示したパウロたちの誇りでした。パウロたちは、汗と涙の結晶である教会を、どんなに問題があったとしても大切にし、誇りに思って関わりました。ですからコリントの兄姉にも、自分たちの教会を誇りに思ってほしいと訴えたのです。
《第二に、任された範囲をわきまえ限度を超えて誇りません(14-16)》
パウロは自分たちについて「あなたがたのところに行かなかったかのようにして、無理に手を伸ばしているのではありません」と証ししました(14)。教会を見捨てたり、無理して関わったりはせず(参:14節)、むしろ、どんな苦労があっても、祈り労し続けました。これは事実でしたが、自慢するための証しではありません。創設者として、自分たちとの健全な関係を回復するよう尽力したのは当然のことです。しかしそれ以上の干渉はしないように、自制しました。ただ教会が励まされ祝福されるため、禍根を取り除いて教会が平安の内に前進できるように労していたのです。今はパウロが目指すのは、さらに向こうの未伝の地に福音を伝えることでした(16)。彼が願っていたことは、コリント教会が祝福され、自分たちの働きのために心から祈り、協力してくれることでした。
《第三に、自分を誇らず、一切を支配し導かれる主を誇ります(17-18)》
私たちが誇るべきなのは主のみです。一切は、主なる神、ご自身の栄光のために創造されました(イザヤ43:7)。私たちは、主に信頼し主を喜び、主を誇るために創造されたのです。それは罪によって不可能になりましたが、キリストによって可能になりました。私たちが誇りとするのは主のみです(エレミヤ9:23-24,ガラテヤ6:14)。私たちはこの地上の歩みの中でも多くの栄光を受け取ります。これらは主が私たちにくださった祝福です。これらを通して主が崇められることは主にとっても私たちにとっても喜びです。人から栄光を得ようと求めるならば、どこまでも不足を感じるでしょう。しかし主にある栄誉は、追い求める程にますます満たされて、最高のバランスを保たれます。ふさわしい立ち位置を得て、平安に満たされます(箴言29:25)私たちの誇りはどこにあるでしょうか。