2022年5月22日・・・我慢すべきもの、すべきでないもの
私は、自分があの大使徒たちに少しも劣っていないと思います。話し方は素人でも、知識においてはそうではありません。私たちはすべての点で、あらゆる場合に、そのことをあなたがたに示してきました。2コリント11:5-6(1-6)
パウロは手紙の終わりの部分で、自分の誇りや弱さ、心配や心遺いまで明かしてゆきます。そこまでして訴えたのは、教会の祝福を切望したからです。パウロの熱い語りかけを通して、キリストの前に聖く歩むことの大切さを知りましょう。
《第一に、パウロは兄姉に、キリストと婚約させたのだと証ししました(2-3)》
あなたがたを、聖い花嫁としてキリストに結びつけた、と彼は証しします。コリントの教会の兄姉は、彼が最も手をかけた、また心配の種の尽きない霊の子どもたちでした。彼は涙しながら、彼らのために祈り、機会を捉えて説得しました。花婿キリストの父である神と同じ熱心を、花嫁である教会の霊の父であるパウロも与えられていたのです。折角の祝福が、悪い者に欺かれて汚されてしまわないかと彼は心配しました。悪魔は、クリスチャンをキリスト以外の楽しみに誘惑し、過去の誤ちに絶望させ、神のことばを誤解させたりして、キリストが一番であるべき思いを汚そうとします。過信していたコリントの兄姉は、その危険を軽視していました。ですからパウロは、切実な思いで説得したのです。私たちはどうでしょうか。
《第二に、受け入れるべきかを正しく判別するよう訴えました(1,4)》
コリントの人たちは、悪魔に用いられている敵の攻撃に「我慢して」晒され続けていました。自分たちは大丈夫だと考える慢心は襃められるものではありません。危険な語りかけを我慢して聞いているくらいなら、難しく耳の痛い自分の話も我慢して聞いてほしいとパウロは訴えました。自分に心地良く理解しやすいか、ではなく、真実か、また重要かで判断して受け入れてほしいと諭したのです。「良心」とは、最高の基準に自分を合わせようとし、また、その基準が要求するものを絶えず思い起こす力です。神はそれを私たちに与えてくださいました。しかし、罪のやっかいな影響がこの良心をも狂わせてしまいました。神の求める事よりも自分の願いを優先し、神でなく自分を頼ろうとします。その結果、欲望に捕えられ、人とも神とも平和を築けません。損なわれた良心は、真理の福音に対しても自分の思う通りに曲げてもかまわないと判断してしまいます。それでは救いを受けられません。
《第三に、伝道において大切なのはみことばにまっすぐ従い伝えることです(5-6》
パウロは「あの大使徒たちにも劣っていない」と主張しました。彼は遥か後に救われ、前歴は迫害者、話はなっていないと見られました(参:10:10)。しかし使徒として神に召された点は同じです。また神は、恵みによる救いを証明するために罪人の頭を選ばれたのです(1テモテ.1:16)。ユダヤ人とも異邦人とも関わってきた彼は、あらゆる民族の人々にキリストを正しく伝えることができました。救いにおいても働きにおいても、大切なのは主(イエス・キリスト)を知っていることです(ピリピ3:7-8)。花嫁にとって大切なのは、夫を信頼し愛していることです。同様にクリスチャンにとって大切なのは、キリストを知りキリストに信頼し愛していることです。