2022年6月19日・・・真の賢さは主にある愚かさ
もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。2コリント11:16(16-21)自分が信頼に足る主の器であることを証明する弁明の前置きの部分です。賢さと愚かさ、強さと弱さについて、救いが何をもたらしたかを共に確かめましょう。
《第一に、パウロは自分を誇るのは愚かだと承知の上で自慢しました(16-17)》
彼は、人の間で優劣を競い、高ぶり支配し審き合うのは愚かな事だと教えてきました(10:12)。人の優劣は、主の偉大さの前には無に等しいからです。しかし彼は、愚か者として自慢するのを受け入れてほしいと兄姉に要請します。それは世的な考えに囚われていたコリントの兄姉に合わせてキリストを信じる信仰の在り方を伝えるためでした。コリントの兄姉が評価規準としていた血筋や能力や実績などにおいても、自分が偽教師たちに劣ってないことを明らかにして、パウロをおとしめる偽教師たちの批判を封じ、彼らがパウロを信頼できるためでした。人間的な規準に囚われず、キリストのことを一番にしましょう。同時に、人々が信仰に向かうのを妨げていたなら、進んでつまずきを取り除くように努めましょう。すべてはキリストのためです。《第二に、主の前に自分の愚かさを認めることが、一番の賢さです(18-19)》
彼らは知恵を誇りながら偽教師に心酔し、パウロを劣っていると拒みました。そこでパウロは、人間的な部分で偽教師たちに劣らないことを敢えて伝えました。人の知恵を頼ることは信仰の害になっていました。聞くべきではない偽教師の教えを忍耐して聞くことは愚かなことです。たといそれが優れたことばのように聞こえたとしても、神が下さった唯一の福音を、人の都合で曲げることは愚かなことだからです(ローマ1:22-23)。そればかりでなく、神がさばいて、災害を受けたり、救いを受け損なうことになる重大な罪でした(黙示22:18-19)。《第三に、自分の弱さを認め全能の神に頼ることが真の強さです(20-21)》
パウロは、偽の教師たちの教えの被害を受けても我慢していたコリントの兄姉の状況を指摘します。「誰かに奴隷にされても」、罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です(ヨハネ3:14)。「食い尽くされても」、悪魔が獅子のように「食い尽くそうと探し回っています」(1ペテロ5:8)。強奪されても、いばられても、顔をたたかれても......それは暴君にされるがままの状態です。偽りの教えは、最初は私たちを喜ばせても、罪の毒をもって私たちの自由を奪い、抵抗できなくします。パウロは「言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです」と告白します(21)。主キリストを信じる前、パウロは罪人の頭としてキリストを拒み、教会を情け容赦なく迫害していました。コリントの教会は、偽りの教えに捕えられて祝福を失ないました。必要なのは、自分で賢くなろう強くなろうとするのではなく、自分の愚かさ弱さを主の前に告白し、主から知恵と力に満たしていただくことです。その時、私たちは本当の意味で強く賢くされます(エレミヤ9:23-24)。真の強さは、主の前に自分の弱さを認め、主に救って支えていただくことにより与えられ、真の賢さは主の前に自分の愚かさを告白して主の知恵に満たされることにより与えられます。