2022年6月26日・・・私は自分の弱さのことを誇ります
だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。2コリント11:29-30(22-33)
敢えて自分を誇るというパウロの弁明を通して、主に仕える器が誇りとするものを確かめましょう。
《第一に、兄姉のために、自分が不適格でないことをを証しました(:21-27)》
偽教師たちは、パウロはヘブル人ではないと非難しました。実際は外国生まれでしたが血筋や教育は生粋のヘブル人でした。異邦人の中では異邦人のように生活していましたが、それは異邦人を主のもとに導くためでした(1コリント9:21)。偽教師たちは、自分たちこそキリストのしもべだと主張ましたが、パウロは「私は彼ら以上にキリストのしもべです」と主張します。労苦、鞭打ち、石打ち、難船、川や盗賊の難、同胞や異邦人の迫害、町での暴動、荒野の危険な旅、海上の難、偽兄弟の難(窃盗や裏切り)、労苦、眠れない悪環境や働き(1テサロニケ2:9)、窮乏(1コリント4:11-12)、寒さなど彼が経験してきた数え切れない苦難を知ったら、彼らは恥じ入ったでしょう。しかもパウロはこれらの苦難の経験を逃げたり恥じたりしていません(1:8-10)。
《第二に、愛故の心配や痛みも、すばらしい祝福だと感謝しました(28-30)》
さらなる困難は、すべての教会への心遺いでした。働きを主が用いて祝福されることは大きな喜びでした。しかし同時に霊の親として兄姉を世話することは増々大変になったはずです。特にコリント教会が弱っている時、心配で身が細る思いでした。彼らがつまずくことで心が激しく痛みました。救われる前の彼は冷酷な迫害を行い、伝道の初期には同労者を厳しく扱いました。しかし12章で証ししているように、肉体の刺を与えられて、高慢を砕かれ、弱い人々の気持ちが分かり愛することができるようにされました。敢えて誇れと言うなら、「自分の弱さのことを誇る」と彼は告げました。弱い事で傷付き悲しむ事も多くなりましたが、この弱さを通して救いをもたらし聖徒をきよめる「主の力」が現わされるからです。
《第三に、これらの困難は彼が主に召された時から始まった事実です(31-33)》
パウロが迫害者であった頃、彼がダマスコの手前で主に会って救われたこと、使徒として召されて主に用いられてきた詳細な記録を、弟子ルカは「使徒の働き」に記録しています(使徒1:1-2,9:3-6)。パウロは、この苦難が、自分が救われて、キリストを宣べ伝え始めた時から始まったことを証ししました(:32-33)。主は彼に、ご自身のために苦しまなければならないことを告げています(使徒9:16)。そしてこの苦難は、彼が救われ証しし始めた時から続いていました(使徒9:23-25)。彼は、自慢すると言いましたが、結局誇ったのは、過去の栄光でなく自分の「弱さのこと」でした。そして弱い自分を主が守り導いて下さったことを彼は誇りました。誇るとは、自分にとって何が大切で素晴らしいかを証しすること、と言い換えられます。彼の宝物、彼が自慢できることは結局、自分の弱さでした。弱い器を通して、主がご自身の愛と真実を現わしてくださいます。私もあなたも、そうです。