2022年7月10日・・・恵みはあなたに十分である
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
2コリント12:10(1-10)
神に祈っても願った通りにならなかった事を私も度々経験してきました。この箇所のパウロの証しから、願い通りに主が導かれないことの意味を確かめましょう。
《主は、パウロの肉体の刺を、彼が幾ら祈っても取り去りませんでした》
彼は14年前に「霊的体験」をした「ある一人の人の事」だと告げました。自身の体験を誇らないためでしょう。パウロは霊によって引き上げられ、天の輝かしい光景と教えに与りました。彼がアンテオケ教会に招かれた頃です。本格的な働きの初期に、すばらしい啓示と共に肉体の刺を与えられて仕え続けて来たのです。彼がガラテヤに行ったのは、静養のためでもありました(ガラテヤ4:13)。この刺から解放されてもっと働けるようにと彼は切実に祈り求めましたが、そうなりませんでした。これ程主に祝され用いられていた使徒が体験したことです。思い通りにならないことで、信仰の熱心や、主への信頼を失っていないでしょうか。自分の願いがかなわないことは、聖書の救いの真実や価値を少しも減じるものではありません。
《主は、自身の力は弱さのうちに完全に働くからと答えました(8-9a)》
その刺は「高ぶらないため」に与えられたものでした(7)。霊的知識や体験がすばらしい程に、高慢の誘惑となります(1コリント8:1)。祝福の体験や能力も神の恵みで、自分を誇れることではありません。主は私たちが、自分の弱さや足りなさを忘れないために、試練を与え、自分の弱さを自覚させて下さいます。刺を取り去ってほしいとの願いは叶えられませんでしたが、主は祈りに十分答えておられました(9)。神は最善に導いておられ、恵みは十分でした。彼は病を通して、高ぶりの誤ちから守られました。それが彼の証しに現わされています(1コリント2:1-5)。彼は、弱い人々や誤ちを犯した人々を、理解し同情する者、赦し受け入れ励ます者とされました。また謙遜に協力者に頼り、助けていただくことができました。また与えられた刺により、一層主の恵みを伝えることができました。彼が弱かったからこそ、人間的要素が排除されて、純粋な福音の恵みが伝えられました(ゼカリヤ4:6)。彼の証しは、病やハンディを負われた人たちへの励ましとなったでしょう(ヨハネ11:4)。
《パウロは、弱さと困難の中にあることを喜んでいると証ししました(9b-10)》
肉体の刺が与えられた意味を彼が悟っても、刺は除かれないままでした。苦しみを通して主の恵みに導かれれば、その苦しみはなくなっても良いのではないか、と私たちは考えます。そういう場合もありますが、なお困難の中に置かれる場合もあります。それは試練を通して主がさらに教えと恵みと守りを与えられるからです。パウロは弱さを通して、増々謙遜で愛深い使徒に変えられていきました。第二伝道旅行に出発する時パウロは、前回逃げ帰ったマルコは連れて行くべきでないと、バルナバと反目しました(使徒15:38-39)。しかしこの手紙でパウロは、誤ちを犯したコリントの人々に、やさしく愛をもって書き送っています。またテモテへの手紙第二で彼はマルコを誉めています(4:11)。自分の願う通りになっても、願わない道に導かれても、主は私たちを変わることなく愛し、最善に導いておられます。