2022年7月24日・・・成長と回復を期待する主とパウロ
あなたがたは、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと、前からずっと思っていましたか。私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する者たち、すべてはあなたがたが成長するためなのです。
2コリント12:19(19-21)
パウロは、コリントに向かう三度目の訪問で、互いに期待外れな結果になりはしないか心配していると、思いを伝えています。それは主の思いでもありました。
《第一に、パウロが弁明をしたのは兄姉の成長のためでした(19)》
コリントの兄姉は、パウロが自分のために弁護していると受け止めていました。しかしパウロが兄姉を叱り自分の弁明をしたのは、自分の立場を良くするためではなく、兄姉の成長のためでした。彼が悪賢く、だまし取ったと考えたとしたら、全く愚かなことです。彼が、兄姉から奪うつもりなら、どうして金銭を受け取ろうとせず、また彼が遣わしたテトスや兄弟たちが信頼できる人物なのでしょう。彼が願っていたのは、金銭を得ることでなく、兄姉が祝され教会が成長することでした。主と、主にある兄姉や働き人を信頼しましょう。みことばを読む時、信じ従おうとする思いで向かいましょう。主に喜ばれる道、主にあって喜ぶ道は、主を信頼し、みこころを行なおうとして歩む事です。
《第二に、彼が兄姉を心配していたのは主にある愛のゆえでした(20-21)》
彼は、自分が受け入れられるか心配していました。健康や美を尊ぶギリシア人である兄姉は、キリストの損なわれた姿を仲々受け入れられませんでした。また肉体の刺をかかえている彼の状態に、主の祝福を認められませんでした(参:10:10)。また彼は、自分が兄姉を受け入れることができるか心配していました。伝道の困難(使徒18:9)、独立後の背信など、彼はコリントの人々の罪の根深さを痛感してきました。「争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、混乱」が、再び吹き出す危険が常にありました。また、処罰を行なってもなお淫らな行ないと好色を悔い改めない多くの兄姉がいて、嘆くことにならないかと心配していました。これらの心配は、彼がこの教会を愛し、回復と祝福を切望して祈り労し続けてきたからです。
《第三に、パウロの心配は主が私たちを愛する故に抱く心配でもあります》
神が「ご自身のかたちとして」愛をもって創造された人類の歴史を振り返りましょう。堕落、つぶやき、不信仰、執拗な偶像礼拝を、人類は続けてきました(1コリント10:12-13)。パウロの心配は、裏切ったイスラエルに対して、主がエレミヤを通して語った嘆きです(エレミヤ31:20)。また主が悔い改めないエルサレムを思って嘆いたことばです(ルカ13:34)。コリントの兄姉は、自分たちがどれだけパウロそして主を悲しませてしまったかを痛感したでしょう。この手紙を読んで、兄姉は心を痛めて涙し、悔い改めの実を結んでパウロを迎えたでしょう。パウロも、兄姉がみごとに立ち直ったことを実感して、喜び合ったでしょう。主を嘆かせる者でなく、主を喜ばせる者にしていただきましょう。これが悔い改めの心をもって礼拝を献げることです。「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません」(詩篇51:17)。