2022年8月14日・・・信仰に生きているかどうか
私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。2コリント13:8(5-10)
キリストを信じる事が、私たちの生き方をどのように変えるかを共に確かめ、自分の歩み・人生に確信を持つことができるようにしていただきましょう。
《第一にキリストが内にあると自覚するなら信仰に生かされています(5-6)》
主キリストを信じた者は、自分の内にキリストを宿しています(1コリント1:30)。永遠のいのちはキリストの内にあり、キリストは信じる者の内に生きておられます。そして「信仰に生きているか」は、自分の内に生きておられるキリストと共に歩んでいるかによります。罪を続けても平気であったのは、その自覚が欠けていたためでした。パウロは各自が受けた救いが本物であると確信できるために、勧めました。教会に集っている、聖書の教えを認め実践しようとしている......それだけでは、キリストを宿していることにはなりません。キリストが内に住まれる(=永遠のいのちを持つ)ための唯一の条件は、この方が私の身代りに死なれ三日・・・目によみがえられたことを信じ告白すること、です(1コリント15:2-5)。
《第二に、真理のためなら、どんなことでも可能にされます(7-8)》
パウロは、また主は、彼らに完全無欠に生きることを求めてはいません。不可能です。主に喜ばれないと知りつつ敢えて行ない続ける悪をやめるように祈っている、と告げているのです(1ヨハ1:8-9)。パウロたちが願っていたのは、自分たちが認められるようになることではなく、彼らが神に喜ばれるように歩むようになることでした。パウロは宣言します。「真理」であるキリストに逆らっては何も残らないが、キリストのために成そうとする時主が実現させてくださり、その実は永遠に残る、と(ヨハネ15:16)。あなたの悪名が永遠に轟(とどろ)いてしまったら、永遠の恥辱です。しかし、主は悪の実ではなく、良い実が永遠に残るようにしてくださるのです。感謝なことです。そのために必要なのは「信頼する者を決して失望させない」(ローマ10:11)キリストを信じることです。
《第三に、権威は倒すためでなく立てるために与えられました(9-10)》
パウロたちは、ただ兄姉が完成していくことを願って祈り労していました。2節で「今度そちらに行った時には、容赦しません」と戒規の執行を伝えた目的は、厳しい処置を実行することではありません。むしろ「厳しい処置をとらなくてもすむようになるため」でした。キリストの権威は救い建てるためのものです。「世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ3:16-17)、「栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」(エペソ5:26-27)とある通りです。そして主キリストがパウロたち伝道者を立て権威を授けたのも、聖徒たちに奉仕をさせキリストのからだである教会を築くためです(エペソ4:11-13)。神は私たちを真理のために創造されました。主を信頼し、実を結んで完成し、主と共に良かったと喜び合うためにです。キリストの救いはそのために主の多大な犠牲によって私たちに差し出されました。ここに私たちの希望と生きがいがあります。