2022年9月11日・・・いのちを支配しておられるイエス・キリスト
説教渡邊徹執事
わたしはよみがりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。ヨハネの福音書11:25(11:1-46)
罪の結果、いのちを失った人間にいのちを取り戻させる(ヨハネ10:10)、それが聖書全体のテーマです。主イエスはその実現のために人となって私たちのところに来てくださったのです。ラザロの死と復活から次の三つのことを考えてみます。
《第一に、イエス・キリストは人の生命をも支配される方です」(1-16)》
ラザロの病気を聞いた時、イエスは何故すぐに行動に移されなかったのでしょうか。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(4)とのことばが鍵となります。加えて「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5)もイエスの対応を説明しています。ラザロの病気を聞いた時のイエスの対応は、実は私たちが親しい人の病気を知り、神に祈る時の神の応答と同じです。病と死に関して、神の御計画は私達の願いとは多くの場合違います。それでも、主イエスはラザロの病死に関して、神の栄光につながるとの特別な計画を持っていました。イエスは、ラザロの死とよみがえりの奇跡がご自分の死に直結するものとなることをご存知だったのです(53)。
《第二に、肉体の死は終わりではなく、永遠のいのちの始まりです(17-37)》
姉妹が告白するとおり、イエスがおられたなら、ラザロを死なせず生かすこともできたのではないか。その場にいなかったとしても、父に願えばおことば一つで何でもできたはずです。では、イエスは姉妹の懇願、切なる祈りを無視されたのでしょうか。どうして、周囲も認めるほど愛しておられたラザロの危機に、駆けつけるどころかわざと遅れて、死の力(ローマ5:12)に奪われるままにさせたのでしょうか。助けることはできたけれど、神の栄光を見せるためにあえて見殺しにしたのでしょうか。主のなさることは間違いがありません。やがて後の日・・・に明らかになりますが、主をまず信頼することを学びたいと思います(ローマ9:33)。
《第三に、私たちは神様の計画によって生かされています(38:46)》
(一人一人に神様のすばらしい計画が用意されています)。「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(25,12:25,3:36)。今や、この真理がラザロの復活によって示されようとしています。イエスは祈り終わると「ラザロよ、出て来なさい」(43)と権威ある声で命じました。彼は本当に死者の中から復活したのです。この出来事は大きな波紋を呼びました。パリサイ人たちは、これを機にイエスを殺害することを固く決意しました。そのようにしてイエスは十字架にかけられますが、その十字架の死と復活によって、信じる者が死で終わらずに、神と共に永遠に生きる道が開かれるのです。今日・・・、イエス・キリストが神から遣わされたメシヤだと受け入れられるならば、私たちが取るべき最高の応答は何でしょうか。神の大いなる祝福を受けるために、今すぐにその御声に従いましょう。主の前に告白して、全てを主に委ねましょう。イエスを信じる者にとって、肉体の死は全ての終わりではなく、永遠の命の始まりです。イエスを信じる者は、死に打ち勝っています。