2022年10月30日・・・キリストが私の内に生きておられる
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。ガラテヤ2:20(17-21)
義とされるのは信仰によると教えるキリストの福音に対して、律法を守ることによって義とされると反論する割礼派の教えの誤りであることを、聖書はここで証明しています。
《第一に、信仰による救いは罪を助長していません(17)》
かつてパウロたちは、律法の戒めを守る事が神に受け入れられるのだと教え込まれて努力し、行ないによらず信じるだけで義とされると教える福音に反発してきました。しかしパウロはそれが間違いであることを、主ご自身から気付かされました。良い生き方をしようと努力することがいけないのではありません。しかし人の努力では、神が義と認める規準に到底、到達できないのです。主がイスラエルに律法を与えたのは、この現実を証明するためでした。その事を知ったのでパウロは、自分たちもキリストを信じたと証ししました。信仰による義は、罪を助長してはいません。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)とあるのは、どんなに罪深くても、恵みによって救われることを教えているのです。
《第二に、信仰のみによる救いは罪に死に神に生きるためです(19-20)》
パウロは、自分は「キリストと共に十字架につけられた」「律法によって律法に死」んだと証します。信じる前のパウロは、律法を最高の教師に学び、誰にも負けないように守りました。しかし律法の本来の規準に照らせば自分は違反者であることを認め、そしてキリストが自分のために十字架で死んで下さった事を信じました。信じた時キリストに結びつけられ、キリストと共に十字架で死んで審かれた者とされました。もはや罪に定められません(ローマ8:1)。キリストが内に生きておられ、神と共に生きるようにされました。体や心は以前のままですが、いのちは新しくされました(2コリント5:17)。新しくされたいのちのしるし、神を愛し従い喜びとする性質が徐々に現われてきます。
《純粋な福音の真理に堅く立ちましょう(18,21)》
罪の赦しと永遠のいのちは、キリストの十字架の死と復活によってもたらされた賜物であり、人はそれを信仰によって受けとるのです(ローマ3:24)。彼は「神の恵みを無にはしない」と宣言します(:18)。キリストを信じて救われたのに、行いによって義とされることも必要だと言うなら、キリストの救いを否定することになります。それはキリストの贖いは救いに不十分だと言う事であり、自分の努力で正しくなれると主張して、神の聖さを拒む事になってしまいます。唯一の救い主であるキリストと主が宣言された唯一の救いを受ける道である信仰に、哲学や律法主義などを混ぜ込んで損なってなりません。キリストを拒む世を愛して福音に混ぜ込もうとする働きは、神を敵としてしまう事です。純粋な栄光の福音のもとに留まって歩みましょう。