2022年11月6日・・・祝福を受け継ぐのは信仰による
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。ガラテヤ3:9(1-9)
聖書はここで、律法の行いなしには義とされないと惑わされていた諸教会に対して救いの原点を思い起こさせます。救いはただ信仰によって与えられることを確認しましょう。
《救いの聖霊を受けたのは、信仰をもって福音を聞いたからです(1-3)》
パウロは、彼らの救いの一部始終に立ち合った使徒として、どのようにして救われたかを証言します。彼は、救われるために律法の行いが必要だとは一言も教えていませんでした。ただキリストの十字架の福音を説教した時、キリストの死が自分の罪の赦しのためだ聖霊が証しされ、各自がキリストを信じ受け入れ、告白しました。律法の行いは肉(=生まれつきの性質)に属する努力であり、肉は救いをもたらさず、完成しません。主が教えられた通りです(ヨハネ3:3,6:63)。福音は霊(=神の生ける働き)に属しており、その恵みは、信仰によって受け止めるだけです。福音は、信仰によって救いをもたらし、信仰から信仰へと進ませます(ローマ1:17)。
《神が救いのみわざ成されたのは、信仰をもって福音を聞いたからです(4-5)》
パウロは、彼らが福音を信仰をもって受け入れ聖霊による喜びをいただいた体験は無駄でないと告げます。主イエス様を信じた時、当人はその時から自分が変わったことを体験して覚えています。その体験や変化の様は様々ですが、救いを受けた時自分も周囲も、その人が変えられたことが判るようになります。また主は、私たちを救いの内に守ってくださいます(ローマ11:29)。パウロは、神が「あなたがたに聖霊を与え・・・力あるわざを行なわれる」のは、「律法を行なったから」か、それとも「信仰をもって聞いたか」と問い返します。救いのしるしを現わしてくださったのは、律法の行いによってでなく信仰をもって福音を聞いたからです。良い行ないをする立派な人になったから救われたのではなく、自分の罪を認めその罪のためにキリストが十字架で死なれた事を信じたからです。クリスチャンが良い行いに励むのは、救われるためでなく救われて自分が新しくされたからです。
《父祖アブラハムが義と認められたのも信仰によってです(6-9)》
パウロは、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(:6)と創世記15:6を引用して、義と認められる(=救われ、神の祝福にあずかる)のは、信仰によってであることを証明しました(参:ローマ4:5-10)。父祖アブラハムが義と認められたのは、彼が割礼を受ける前であり、モーセの律法が与えられる約500年前の事でした。アブラハムと共に神の祝福にあずかる子孫は、律法を行なう人々ではなく「信仰によって生きる人々」です。主のご計画は初めから、神がすべての民族を信仰によって義と認めることであり、それを実現したのがキリストの福音です。ですから信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムと共に祝福をいただくのです(:9,ローマ4:16-17)。