2022年11月13日・・・義人は信仰によって生きる
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。ガラテヤ3:11(10-14)
この箇所は、義と認められる(罪を赦され神の祝福の内を生きる)ことは、律法の行いによらず、ただ信仰によることを、さらに明らかにしています。
《律法の行いでは義を得られず、のろいを招くだけです(:10)》
聖書が教える「のろい」とは、神の正しいさばきによって祝福を失なってゆく状態にあることを表わしています。(1)悪を改めようとしない人々に対してののろい。正義である主は、私たちの悪を怒られますが、忍耐をもってさばきを猶予しておられます。しかし主は、終りの時にすべてを明らかにしてさばきます。人はみなそれに備えなければなりません(2ペテロ3:9,エペソ2:3)。(2)誤った価値観に捕われた結果としての「のろい」。真理である主の祝福は幸いに不可欠です。しかし偽の相手や教えを信じ込んで追求しては、一時成功したと見えてもやがて失望する「のろい」となってしまいます。これが「偶像」です。(3)律法の行いによって義を得ようとする結果である「のろい」。人が決して実行できない律法の戒めにより祝福を得ようとすることも、律法自体は良いものであってものろいをもたらしてしまいます(ヤコブ2:10,ガラテヤ3:10)。
《律法の行いに頼るなら、信仰による義を受けられません(:11-12)》
さらに律法の行いに頼ることは、祝福を受けられないだけでなく、義と認められる唯一の道である信仰を得られなくしてしまいます。「律法による」とは、自分の力と努力によって自分の正しさを証明する道です。「信仰による」とは自分の力では律法を守れないことを認め、ただ神の恵みによって義とするとの主の約束を信じて受け取ることです。信仰によって生きるためには、律法によって生きることを放棄しなければなりません。律法は完全に守らなければ違反者とみなされます(ヤコブ2:11)。また、信仰は「ただ恵みによって」と宣言しています(エペソ2:5,8)。人の功績と神の恵みを合わせて、と考えるかも知れませんがそれは「代金を払ってプレゼントを要求することはできない」ように不可能なのです。
《キリストが十字架で律法ののろいから救い出してくださいました(13-14)》
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(3:13)。人のあるべき状態は、神を愛し信頼し従っていることです。神を知らない、認めない、信頼しないこと自体が罪です(ローマ14:23)。律法には、神が求めておられることが明確に記されており、それに違反することが罪です(1ヨハネ3:4)。私たちは、この罪のゆえにさばかれなければならないものです(ヘブル9:27)。しかし、キリストは私たちの罪を身代りに負って、ご自分を犠牲にされました。それが十字架の意味です。キリストの救い(贖い)は、主がアブラハムに約束された彼の「子孫によってすべての国民が祝福される」(創世記22:18)との約束の成就です。この救いは「信仰によって約束の聖霊を受ける」ことで実現します。