2022年11月20日・・・約束を通して与えられる神の恵み
しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
ガラテヤ3:22(15-22)
パウロはここで、信仰によって神の祝福を与えられる約束と、守らなければのろわれると告げる律法がどう調和するかを解き明かしています。
《神が結ばれた約束は何ものによっても変更されません(:15-16)》
人間同士の契約でもいったん結ばれたら変更されません。神がアブラハムと彼の子孫と結ばれた約束は、なおのこと変更されないのです。神はアブラハムに「わたしが示す地に行きなさい、そうすればあなたを偉大な国民とし、あなたを祝福する。地のすべての部族はあなたによって祝福される、と約束されました(創世記12:1-3)。その祝福をもたらす子孫は、複数の子孫ではなく、一人の子孫である「キリスト」です(マタイ1:1-17)。アブラハムが主の約束を信じたように、キリストを救い主と信じる時、罪を赦され義と認められ神の祝福を受けます。この良き知らせ(福音)が、すべての人に差し出されています。
《アブラハムへの祝福の約束は、後にできた律法によって廃棄されません(17-18)》
律法の戒めは、すべて守れば祝福がもたらされるが、一つでも守らなければのろわれると告げています。律法の要求を集約すれば「神を愛しなさい。人を自分と同じように愛しなさい」です。律法の結果は「祝福とのろい」です(申命記28:1-3,15)。イスラエルの歩みが律法が何をもたらすかを証ししました。律法を守ると誓ったイスラエルでしたが、神の愛と忍耐もかかわらず、結局は自らのろいを招くことになりました。聖書があらかじめ警告した通りです。自分の行ないに頼るならば、一時的に祝福となっても、その結末はのろいです。しかし、キリストによって実現したアブラハムへの祝福の約束は、430年後に与えられた律法によって廃棄されることはないのです。
《律法が与えられたのは人が信仰によって約束の祝福に与るためです(19-22)》
律法は、約束の子孫=キリストが来られる時まで、「違反を示すために付け加えられた」ものです。律法は、御使いたちを通して与えられ、仲介者(モーセ)の手で定められました(使徒7:53,ヘブル2:2)。律法は、約束に代わって祝福を与えることはできません。逆にすべての人の罪を明らかにしました。人は、自分にも良いところがあるからと、キリストの十字架にすがるのでなく、自分の努力で祝福を得ようとします。しかし律法は、全ての人の不適格を明らかにして、「不敬虔な者と信仰によって義と認めてくださる」神の恵みに頼るように、私たちを導くのです(ローマ4:5)。また、キリストは、律法の要求する義をただ一人守り抜き、証明されたご自身の義を、信じる者に与えます。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません」(ローマ3:21-22)。