2023年4月23日・・・十字架こそ私の誇り
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。ガラテヤ6:14(11-14)
この箇所でパウロは、キリストの十字架だけを誇りとするように、そこから外れることが決してあってはならないと告げています。その理由を共に確かめましょう。
《第一に、偽兄弟たちに惑わされて信仰を損われないためです(12-13)》
神がイスラエルに割礼を命じたのは、形でキリストの救いを予表するためでした。しかしキリストの十字架と復活によって、信じる者はどの民族でも神に受け入れられる道が開かれました。それにもかかわらず彼らは、割礼を受けてユダヤ人にならなけば神に受け入れられないと主張するユダヤ人たちの機嫌を取るため、異邦人にまで割礼を強要していました。それは不当な要求です。割礼を誇ったユダヤ人は、不信仰に陥ってさばきを招いてしまいました。彼らは自慢するために割礼を要求していました。こうして、キリストを信じるだけでは神に受け入れられないと教えて、十字架を否定していたのです。聖書は明確に、信仰のみによって救われると告げています(エペソ2:8-10)
《第二に、キリストの十字架だけを誇りとすべきです(14a)》
「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」。主キリストは、私たちのために受けた傷を誇りとし、復活した後も留めて示されました。キリストは、私たちのために神のあり方を捨てること、私たちのために貧しくなること、私たちのために辱めを受けること、いのちを犠牲にする事を誇り、喜びとされました(ヘブル12:2)。キリストの十字架は、あなたの価値の証明です。十字架は、神が自ら血を流し死なれたのはあなたのためであること、また、神にとってあなたが何ものよりも大切な存在であることを証明しています。私たちが、十字架を誇りとすることは、自分を愛して、身代りにいのちを犠牲にされた主を愛し、誇りとしていることの証しなのです。
《第三に、十字架によって聖徒は罪に支配された世から解放されています(14b)》
十字架は、掛けられた者にとっては、支配に屈し犯罪者であることを認め、恥をさらして社会から除かれることを意味しています。また十字架に掛ける者にとって、この人は自分たちの社会から排除しなければならない者だと決定し、罰を負わせ見せしめとし、社会から排除することを意味しています。パウロは、自分がキリストと共に十字架につけられたと証ししています(ガラテヤ2:19-20)。キリストの十字架を信じる者は、神とキリストを拒む世界から断ち切られ、神とキリストを信じて共に生きる世界に移りました。その中間はありません。地上にあって信仰者は、主が愛し仕えられたように、信仰を持たない人にも親切にし平和に生きるべきです。しかしキリストを信じる人と信じない人とは、生きる目標や原理は全く異なっています。キリストを信じない人の基調は、自己中心と諦めです。神を排除すると、人は自分を中心に考えるしかできなくなります。神の助けが得られず、利害が対立して、願いは実現しないとあきらめるしかありません。対してキリストを信じる人の基調は、愛と自己犠牲と希望です。キリストの十字架が、自分を犠牲にすることは、いのちと栄光の道であると証明しました。