2023年6月11日・・・主が良くしたことにお答えしよう
主が私に良くしてくださったすべてに対し、私は主に何と応えたらよいのでしょう。詩篇116:12イエス様は聖書で「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。
なぜなら、私たちは既に主が良くしてくださった多くのものを受けているからです。しかし、問題は私たちが多くを受けていることを忘れてしまう、或いは気にせずに感じていない、それよりも私の周りを囲んでいるあの問題、この困難にばかり目が向いてしまい不平や不満や不安ばかりで頭がいっぱいになる毎日・・・ではないでしょうか?(詩篇103:2)
ですから、宣教する私たちがまず、何を献げるかよりも前に、主から何を頂き、何を私たちのためにしてくださったのかをもう一度、発見し、感動し、感謝をしなければなりません。それがあって、初めて私たちは心からの奉仕、働き、献げ物や献身をもって宣教へ参加することができるのです。
ヘブル2:1「こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。」「ますますしっかり」とは「注意を払う」「耳を傾ける」とも訳されています。これは受け身ではなく能動的に、聞いたこと、教わった信仰の素晴らしさを自分からじっくり考え、確かめ、自覚的に意識的に忘れないように実践する信仰生活が求められているのです。そうしないと、「押し流されてしまう」かもしれないからです。信仰の破船は気付かずに少しずつ始まり、放っておくと日・・・が経つうちにどんどん遠くに離れてしまい難破してしまうのです。(ヘブル6:19)
次のステップが「私は主に何と応えたらよいのでしょう。」です。その答えは一つだけではありません。あなたの思い、時間、持てる物、経済、才能、奉仕、あなたのすべてのものが、「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:20)と言う意味なのです。そして、具体的な主の栄光を現し、主が一番お喜びになるお返しが世界宣教に参加することなのではないでしょうか?イエス様は「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ。」これが神の最も大切な戒めと言われました。
この「隣人」とは、すぐ近くの仲間や、自分の生活範囲の人々のことだけを言っているのではなく、イエス様が良きサマリア人の譬えで、主の御心を教えられました。ユダヤ人は自分の同胞にしか興味がありませんでした。しかし、このサマリア人は自分と関わりがなかった者、しかし、助けを求めている失われた者に心配り、犠牲を払い、時間をかけ、祈り、関わって行ったのです。そして、今私たちがこのことを具体的に実現するために一番の最善な方法は世界宣教であって、私たちが主が喜ばれるお返しとしての働きなのではないでしょうか?(佐藤一彦師)