2023年7月2日・・・救い
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25(1-44)
(井口拓志)
ラザロという人が病気で死に、イエスキリストによってよみがえらされた聖書の出来事を通して「救い」について考えます。上記のイエスの発言は大胆で、極めて非現実的です。しかしそれは神にとっての現実と言えます。聖書は人が救われなければならないと主張しています。何から救われなければならないのかというと、罪から救われなければなりません。なぜ、罪から救われなければならないのかというと、罪によって人が死ぬからです。神は人を「死なせまい。救いたい」と願っておられます。
《人間の現実》
聖書はラザロが病んでいたこと(1,2)、死んだこと(14)、墓に入れられて四日・・・経過したこと(17)の事実を淡々と述べています。人には成す術がないことを言わんとしているかのようです。人に何かできるとすれば、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21,32)と「たられば」を主張するくらいです。「死」の一般的な意味は、「生命がなくなる(尽きる)こと」、或いは「生命が存在しない状態」です。この定義だと、死んだら終わりということになります。聖書の死についての考えはこれとは違い、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)とあるように、罪の結果としての死を述べています。罪は「的を外す」という元の意味があり、本来のあるべき姿ではない状態が罪です。いのちの根源者である神から離れた状態がそれであり、人間の死こそ、本来あるべきものではなく、極めて不自然で、受け入れ難いものです。
《神の現実》
人間の現実を見据えた上で、神の現実を見なければなりません。イエスは「主よ。もしここにいてくださったなら...」と言った姉妹の涙をご覧になった時に「霊の憤りを覚え」ました(33)。イエスご自身もラザロの遺体をご覧になり、涙を流されましたが、「再び心のうちに憤りを覚え」(38)られました。イエスの怒りの対象は死そのものであり、その死をもたらした罪と悪の存在に対してです。聖書は死を「最後の敵」と述べています。つまりイエスにとって死は戦う対象なのです。しかも、人の現実の生活苦、病、悩み...のボスが死ですから、諸々の現実が解決してもボスを倒さない限り、真の解決、救いとはなり得ないのです。さて、死と戦って勝利するには罪に勝利しなければなりません。戦う条件は罪のない人が戦うことです。罪は違反行為ですから、罪があるなら必ず処罰されなければいけません。ですから人間社会にも法があるわけです。神にこそ法があります「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(へブル9:22)。私たちの犯した罪の事実を消すことは出来ませんから、罪のない人間であり、同時に神であるイエスが、私たちの代わりに「血」すなわちいのちの犠牲を払われました。三日・・・の後に肉体をもって復活されました。もし肉体をもってよみがえらなければ、罪と死に勝利したという理屈が通りません。この方を信じるならば、私たちは罪と死から救われます。