2023年9月10日・・・主が与えられた平等
私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。
ヤコブ2:5(1-7)
記者は、聞きながら行わない罪を具体的に明らかにしてゆきます。まず「えこひいき」を取り上げ、私たちが何を一番にしているかを浮き彫りにして正します。
《第一に、信仰を持っていながら人をえこひいきしてはなりません(1)》
聖書は富む事が悪いとは教えていません。神はご自身のご御支配と計画によって、ある人を富ませ貧しくし、また強くしまた弱くします。どんな立場や人間的考えについても優劣つけず、罪に支配されている故に堕落して腐敗してゆく罪の問題を指摘しています。しかし、キリストを信じた者は、罪が支配しているこの世界から、神の恵みによって救い出されました。キリストはどんな人もえこひいきせず、すべての人の罪のために十字架でいのちを犠牲にし、恵みを与えてくださいました(1テモテ2:6)。ですから、キリストを信じる者は人をえこひいきしてはならない、神が人に対するように、すべての人を尊ぶように、と命じています(マタイ5:44-48)。クリスチャンの規準は、人間でなくキリストです。公正は神のきよさの現われであり、主はご自身に倣うよう私たちに命じています(1ペテロ1:16)。
《第二に、貧富の差で優遇や冷遇することは人を審く罪です(2-3)》
支配階級の人が、世間で自分が受けている優遇を当然のことのようにして、教会に入って来ました。世の考えと圧力に屈して、立派な身なりの人を「良い席」に迎え、貧しい人には立つか足元に座るように促すことが起こりました。席だけでなく、あいさつや説教にも圧力がかかったでしょう。こうして、全ての人を愛して平等に恵まれた主の価値観を否定し、主が赦し受け入れた人を世の規準で虐げ、主の権威を否定してしまいました。世間がどうであれ、主の教会では、神が一人一人に関わられたあり方で関わることが求められています。私たちは世の規準にとらわれていないでしょうか。民族、国籍、ことば、家柄、学歴、職業、収入・・・尊ぶべき大切なことは、キリストを持つものとされたことだけです。キリストの十字架以外に誇りとするものがあってはなりません(ガラテヤ6:14)。
《第三に、貧者を蔑み御名を汚す富者をと同じになってはなりません(5-7)》
貧しい私たちを尊ばれた主を見つめましょう。旧約時代からずっと、主は心の貧しい者を幸いだと告げています(詩篇69:32,147:6,マタイ5:3)。ここでも記者ヤコブは「私の愛する兄弟たち」と呼びかけて冒頭の聖句を告げました。また、貧しい人や聖徒たちを迫害するのは金持ちだ、と告げます。裕福な人、権力者は、「成功信仰」に陥り、自分を優れた者だと高ぶり、貧しい人を見下げます。さらには、自分の成功と支配が社会のために必要なことだと考えて、邪魔な者を排除します。その考えの行き着く先は、キリストを十字架につけた支配者たちの道です。私たちの為すべきことは、その人たちのために祈り、さばきを主に委ね、善をもって悪に打ち勝つことです。救いはそれを可能とします(ピリピ4:12-13)。