2023年10月29日・・・舌が聖くされるように
私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。ヤコブ3:9-10(9-12)前回は3章の冒頭を通して、舌を制御できない災いの現実を解決するには、主に委ねて聖めていただくことが不可欠なことをお伝えしました。発声器官そのものは悪くなくても、心から出てくる悪い思いが、舌を通して出てきて、相手や自分を損ってしまいます。しかしこの問題は、キリストを信じて救われてもなお、舌の問題が別の意味で引き起こされていました。
《神を賛美しつつ、人を呪う私たちの現実(:9)》
イエス様は、この世はもちろん、ご自身を信じた弟子たちにも、つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ、と告げました。「義人」と評されたヤコブでさえ「私たちは」と、自身も舌で忌まわしいことばを発してしまう現実を告白しています。キリストを信じて救われ「主であり父であるお方をほめたたえる」ように変えられたのは幸いです。しかし神をほめたたえる一方で、神が御子の犠牲をもって救おうとしている人(1テモテ2:4)を呪っていたのです。主が「敵のために祈りなさい」との命じているの知りながらです。それは救いを世界に広める教会の使命、存在意義を否定してしまうことです。それをさせるのは肉の内に潜む罪です。
《自然界では有り得ない不自然なことを行なわせるのが罪(10-12)》
ヤコブは、賛美と呪いが同じ口から出て来ることがあってはならない、と訴えます(:10)。賛美(=神に感謝し、賛成し、神を愛し、神をほめたたえる)と、呪い(=神の救いを受けられず、さばかれよ!と断罪する)は相容れません。それを舌が発するのは、心の中に信仰と不信仰が同居しているということです。それは「律法主義者」の考えであり、恵みの福音とは正反対です(マタイ18:14)。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が同時に湧き出すことはなく、一つの木が、別の種類の実をならせる事はありません。このような事は、自然界では有り得ないことです。信仰と不信仰、賛美と呪い、感謝とつぶやき、祈りと偶像礼拝が、いっしょに出てくることは本来ないはずです。